「どちらが欲しいか悩んでおるなら両方にしなさい。おじいちゃんは、いくらでも買ってあげるよ」。
法語をのこしてくれた祖父の仲野良俊は、遊びに行くと必ず、孫の私をデパートのおもちゃ売り場へ連れて行ってくれました。私のお目当ては、当時、女の子の心を離さなかった「リカちゃん」人形です。どれにしようかと悩む私に、いつも笑いながら、何でも与えてくれる「甘い、甘いおじいちゃん」でした。そのおかげで帰りの新幹線では片手にリカちゃんハウス、片手にリカちゃんと、私の両手は母と手がつなげないほど必ずふさがっていました。それが母の帰省のたびに続くので、私の部屋はその時、その時の新作であふれていました。
キャビンアテンダント、ドレス、ミニスカート、テニスウェア。ありとあらゆるリカちゃんに、パン屋さん、花屋さんなどの数々のリカちゃんハウス。デパートの売場よりも揃っている夢のような私の部屋でした。しかし、私はそれに満足できず、足の踏み場もないほどに溢れているリカちゃんなのに、新しいものを見ると、また欲しがりました。遊びきれないほどの数なのに、「もっともっと」と、おねだりをしました。そのたびに、ニコニコと笑いながら与えてくれる、優しい、優しいおじいちゃん。
でも、買ってもらった時は新鮮に感じていたそれらも、日が経つと、どうでもよいものになり、新しい次が欲しくなりました。
祖父がお浄土に還って、何でも買ってくれる人はもういないのに、欲しいと思う心は今でも変わることのない私の性分です。
欲しくて、欲しくて、仕方なかったのに、手にして満足するのは、その場限り。欲にまみれているのに、そのことにさえ気づくことなく、また次へと手を伸ばす。
与えられても、与えられても、次の瞬間から、また新しいものへ心が奪われてしまい、手にするまで満足できず、そして手にしても、また次を要求する。
「ものが縛るのではありません。ものをとらえる心に縛られるのです」。
そうなのです。ものではないのです。その対象物に縛られているのなら、それを手にした途端、解放される心です。しかし、ものをとらえる心に縛られているから、どれだけ手にしても、満足できない。このことを親鸞聖人は「煩悩」という言葉でお示しくださいました。煩悩の所為に悩み続けている愚者が、私、凡夫です。そのあさましさに気づけ気づけと、祖父は私にものを与え続けたのでしょう。
無碍光の利益より
威徳広大の信をえて
かならず煩悩のこおりとけ
すなわち菩提のみずとなる(『高僧和讃』真宗聖典四九三頁)
そのあさましい自分に気づいたのであれば、手を合わせずにはおれなくなる。南無阿弥陀仏と称えずにはおれなくなる。とらわれの心だからこそ、阿弥陀様と向かい合う他ない。すがる他のない自分。
何をねだっても、にこやかにほほ笑んでいた祖父は、「何でも買ってやるから、いつか、そのあさましさに気づけよ。それに気づいたら、手をあわせずにはおれなくなるぞ。阿弥陀様のお計らいに出会うことができるぞ」と、私にはたらきかけてくれていたのでしょう。
『今日のことば 2015年(6月)』 「ものが 縛るのではありません ものをとらえる心に 縛られるのです」
出典:『三誓偈講話』