時間というのは、過去→現在→未来という流れるようなものではなく、過去も未来も包んだ現在(「今ここ」)という時間である。ということを聞いてきましたが、そのことがはっきりと感覚できずにいました。何がそのことをわかりにくくさせているのか。そんな時、たまたま読み返そうと思い手に取った『安田理深講義集』の中の一文が目に留まったのです。一度読んでいるはずの、その時気づかなかった文章は、今の時代と社会の真っ只中に生きている私を言い当てている箇所でした。
時間も空間も資本主義からいうと、空間はマーケット、時間は生産の時間である。つまり人間は、単なる時間ではなく資本主義の時間を生きている。人間が自己を考える時間を許さない。そのような時間は贅沢であるという。人間を喪わざるを得ないのが資本主義である。
私自身、資本主義のこの時代と社会にどっぷり浸かっているからこそ、最初に言った本当の時間がわからなかったのです。まさに日常に覆われた五濁悪時の群生海であります。
もし、この言葉どおりの「今ここ」だけを考え生きるならば、これまでのさまざまな過ちを繰り返すのではないでしょうか。現に、過去と未来を見失って経済、経済と推し進めてきた結果、いのちが生きられない大地を作ってしまったのが、あの福島第一原発の事故だったのでしょう。それはただ単に政府や電力会社だけの問題ではなく、資本主義にどっぷり浸かった私たちが、過去、未来、現在のいのちを見失っていたという問題です。悲しいことではありますが、原発の事故によって過去が過ぎ去ったものではなく、そして未来が現在の先にあるものでもなく、過去も未来も現在そのものという、流れるような時間ではないということがようやくわかったように思います。
本願文第十一願
たとい我、仏を得んに、国の中の人天、定聚に住し必ず滅度に至らずんば、正覚を取らじ。(真宗聖典十七頁)
必至滅度の願と名付けられたこの願が、今、私たちのあるべき方向を指し示している願であると如実に感じています。必至滅度の必至という言葉は、今受け取ることですが、それは現在だけにとどまらず、その現在をとおして、今まで歩んできた過去を支えてきたものを思い返すことによって、未来のいのちを見失わないということ。それは言い換えれば、今、未来のいのちのために何が問われて何をするべきなのか、ということ。それが必至という文言に集約されていると思えてならないのです。過去を切り捨て、未来を見失うと、「今ここ」を生きる私(人間)の積極的な課題も見いだせないでしょう。それは同時に浄土の用らきを見失った現実ではない穢土を生きる姿です。
「念仏は個人を直接的に救うのではなく、時代と社会を救うものである」とずっと聞いてまいりました。いよいよその念仏をもって、過去も未来も包んだ現実の「今ここ」を生きるのだと、この法語は語りかけているように思います。
『今日のことば 2015年(8月)』 「今を生きずに いつを生きる ここを生きずに どこを生きる」
出典:『学仏大悲心』