香樹院徳龍は、一七七二(安永元)年、越後の名刹、無爲信寺に生まれた人。八歳の頃すでに漢詩をよみ、十歳にして詩集をだされたと聞いています。当初は江戸に出て和漢の学を習い、やがて京都へ行って真宗の教えを香月院深励に学び、その奥義をきわめられました。また、倶舎、唯識、華厳、天台の教えにも精通し、『成唯識論講義』九巻、『往生論註講義』四巻をはじめ、多くの著作をのこされました。一八四七(弘化四)年には大谷派学階最高位の講師に任ぜられ、多くの門弟を育てながら各地を教化し、一八五八(安政五)年、京都六条の高倉学寮で八十七歳をもって往生の素懐をとげられました。
さて、法語は、「み名を称えるままが(称名念仏は)、つねに御本願のみこころを聞くこと(聞名)になる」ということでしょう。「つねに」という言葉には、いつでも、どこにいても、誰にでも、という意味がこめられています。称名念仏は、「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」(『歎異抄』真宗聖典六二七頁)と述べられているように、真宗の教えの眼目であります。
最近のことですが、ある地方紙の記事作成にかかわった折に、「念仏を唱える」と記してあったので、「唱える」を「称える」に修正してほしいと担当者に伝えたところ、後日「社内協議の結果、新聞表記ルール上、どうしても認められない」という返答がありました。「称名」と「唱名」が同義にあつかわれると知ってあきれてしまいました。
「称名」は、み名を称揚・称讃することであり、「また、称は、はかりというこころなり。はかりというは、もののほどをさだむることなり」(『一念多念文意』真宗聖典五四五頁)と述べられています。「称」は「秤」という意味もあって、み名の心とそのみ名を称える衆生の心がぴたりと一つになるということです。そこに信がさだまるのです。これに対して「唱名」は、唱える行為、行が課題となります。このように「称名」と「唱名」は明らかに異なります。
池田勇諦先生は、「称名念仏の主語は誰か」という問いをたてて、
称名の主語はどこまでも「諸仏」なのです。なぜなら、称名の原義は、言葉に成った仏=南無阿弥陀仏を称揚する・称讃することですから、仏を称讃できるものは仏しかないからです。(中略)称名は、いつでも・どこでも・誰のうえにあっても、諸仏称名の呼びかけであり、根源的に阿弥陀如来の呼び声ですから、ただ私たちは「聞く」のみ、「衆生聞名」のほかにないのです。 (『念仏の救い』十五・十六頁 東本願寺出版部)
と、述べておられます。
「「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし」(『教行信証』信巻 真宗聖典二四〇頁)という宗祖のお言葉にあらためて覚まされ、称名すなわち聞名、と教えていただく仏恩の深さが思い知らされます。
「今日のことば 2015年(1月)」 『称えるままが つねに御本願の みこころを 聞くことになる』
出典:「わかりやすい名言名句 妙好人のことば」香樹院徳龍