人間はさまざまな人生の局面において、思いどおりにならない現実に直面します。そしてそれが、空しさとなって人間に襲いかかります。思えば親鸞聖人も、二十年に及ぶ比叡山での修学において自力無効にさいなまれ、空しく過ぎる(空過)現実に苦悩されたのではないでしょうか。「空しさ」は、私たちの人生の奥底に横たわっている現実なのです。
私たちは、空しさの解消を考えます。そして満ち足りた世界を手に入れようと努力します。努力は私たちにとって当然の行為です。そのような努力を、親鸞聖人はどのように見ておられるのでしょうか。『教行信証』「信巻」に次のように述べておられます。
一切凡小、一切時の中に、貪愛の心常によく善心を汚し、瞋憎の心常によく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸うがごとくすれども、すべて「雑毒・雑修の善」と名づく。また「虚仮・諂偽の行」と名づく。「真実の業」と名づけざるなり。この虚仮・雑毒の善をもって、無量光明土に生まれんと欲する、これ必ず不可なり。(真宗聖典二二八頁)
文中の「すべて」と「必ず不可」という言葉に、親鸞聖人の透徹した人間眼を窺うことができます。私たちはそのような親鸞聖人の人間眼を、正確に学ばなければなりません。親鸞聖人は、人間の努力の「すべて」が「雑毒の善」であり、だから満ち足りた世界を得ようと努力しても、それは「必ず不可」といわれているのです。
「雑毒の善」は『安楽集』に、大きな氷の山を溶かそうとして熱湯をかけても、かえってその熱湯が凍って氷の山が以前より高くなる、と譬えられます。人間の努力は「必ず不可なり」、つまり完成することはない、といわれるのです。親鸞聖人は、このような現実においてこそ「如来の大悲心」が信心として成就することを教えられるのです。
さまざまな業因縁は、人間に襲いかかります。業因縁は、人間の努力でどうにかなるような、生易しいものではありません。業因縁にがんじがらめなのが、人間の実相です。『歎異抄』に次のように説かれています。
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ(真宗聖典六四〇頁)
このように親鸞聖人は、自分自身を「そくばくの業をもちける身」と自覚されました。そして、「そくばくの業」しかない我が身の実相に目覚めてみれば、今までがんじがらめにされていた業因縁こそ私の一切であり、それはすでに如来によって荘厳されていた、一切手出ししなくてよい世界に自分があったことを発見することができたのです。「そくばくの業」において、如来が私に「不可だぞ。早くあなたのその思いを捨てよ」と拝んでいた事実に気がつくのです。業因縁に生きる他ない私たちには、「そくばくの業をもちける身」において如来に拝まれている声を聞くことが許されているのです。「かたじけない」とは、因縁に随順して如来を拝む静かな満足の心境であったのです。
「今日のことば 2015年(2月)」 『拝むとは 拝まれて居た事に 気付き醒めること』
出典:「高光大船著作集 第五巻」高光大船