今日のことば  ある時、知り合いの住職からいただいた葉書に「なにも足さない。なにも引かない」という言葉が書いてありました。すっきりしたいい言葉だなと思った後で、何だか自分がはずかしくなるような気持ちも起きました。どこかの妙好人の言葉かと思っていたら、これはウイスキーの宣伝のコピーだと知り二度びっくり。つまり、余分な物を加えたり、薄めたりしていない、素材そのものだけで作っているということなのでしょう。

それに比べて自分を振り返ってみると、ほとんどいつも足したり引いたりしていることに気づかされます。粗末な自分は足し算し、愚かな自分は引き算して自分を見ています。自分に出会うというのはどういうことなのでしょう。

二十代の頃、何年もつきあっていた病気が著しく改善したことがありました。もはや自分の一部のように引き受けていた痛みがなくなった時、とても嬉しかったのですが、その後はそれほど単純には行きませんでした。退院し日常生活が始まると、勝手が違うことがとても多かったのです。健康に生活を送っている人も、苦しんで生きていると感じた、といってもいいのかもしれません。人と比べる苦しみ、自分の居場所を確保するための苦労、つじつまの合わない現実のつじつま合わせに奔走してしまう様は、新たに見えてきた人間の局面のようでした。

病院は、健康であればあまり近づきたくはない場所ですが、静かで清らかな場所でもある、といっては美化し過ぎでしょうか。自分の病気にひたすら向き合い夜が明ける。朝にはカーテンを開けて挨拶し、深夜の苦しみを少しだけ分かち合う。退院する仲間には「もうここに帰ってきたらあかんで」といって互いに泣き合うような光景もありました。

回復し、少しずつ働き始めた頃、私に湧き上がってきたのは、自分の名前を呼んでほしい、という漠然とした、しかしとても強い衝動でした。自分の本当の名前を呼んでほしい。それは、親しく呼びかけてもらってきた「鈴ちゃん」という名ではなく、もっと何か深い呼びかけのように感じました。その時思い出されてきたのは、大谷専修学院でお聞きした竹中智秀先生の言葉でした。

「私たちには三つの名前があるのです。親につけてもらった名前である俗名と、仏弟子の名告りとしていただいた法名、それからもう一つは、南無阿弥陀仏という根本法名です」。

健康であれば生きていける、あるいは生きやすいだろうと思っていた私。思いどおりの体になれば息がつけるだろう、と気が休まることがなかった。健やかな時が本当の自分で、病んでいる時の自分は本来の自分ではないと。しかし、病んでいても健康でも、どちらも自分であった。思いどおりになったからといって、素直に喜べるとは限らない、おさまりの悪い自分に出会いました。

その時、先生が押さえておいてくださった、南無阿弥陀仏という呼びかけがあることがとても嬉しかったです。

菅生 鈴

『今日のことば 2015年(4月)』 「出会わねばならない ただひとりの人がいる それは 私自身」
出典:『「歎異抄」のこころ』廣瀬 杲