今日のことば  正親含英師はある方の発言を本の中で紹介されています。

私のようなものが申しまする念仏、ちょうどため息をするような念仏であります。この世の生活に疲れてきて、ため息のような念仏しか、私どもが称える念仏はありません。(中略)ところが、ため息はため息ながらも、念仏のため息をさしてもらう時には、ため息の中に、どうにもならぬ中におちついてゆくことができます。

その言葉に師は、「有難いことばを聞かせて頂いたと、今も忘れないのであります」とおっしゃり、続いて「念仏しながらも聞こえてくるものは煩悩の嵐が聞こえてくる。けれども、その煩悩の嵐の中にも、念仏において本願の呼び声が聞こえてくるとこう申していいのじゃないか」とおっしゃっています。

ここで思い出されるのがカメラマンの横山定男さんの詩集『ありのままが ありがたい』(難波別院発行)の中の、

朝、目が覚めたら、大雨だった。
困ったなあと思いました。
ますます大雨になりました。
わたしが勝手に困っているんだなあと思いました。

という詩です。横山さんは暁烏敏師に師事された方でしたが、藤原鉄乗師、高光大船師ら「加賀の三羽烏」といわれた方々のお姿を写真家として撮影し続けられ、七十八歳の生涯を全うされた念仏者です。

自分の都合に合わない、意に添わないのが娑婆世界、堪忍土といわれる現実世界です。そしてまた、思いどおりにならないのが我が「心」でしょう。いつも意に添うか添わないかで一喜一憂する煩悩具足の身を生きています。横山さんもまた、仕事に不都合な大雨に困られましたが、困った中にありながらも、「勝手に困っている」自分のありのままの姿が見えていたのでしょう。そこには決して煩い悩む暗い世界ではなく、明るい世界が開かれているようです。横山さんにはこんな詩もあります。

三歳児の孫が、悪さをしたのが泣いていました。
「ごめんね」と言いなさいと言いましたら、
即座に「ごめんね」と言うのです。
おじじの私はまいりました。

かつて横山さんと夕食をご一緒させていただいた時に、どうして「まいったのですか」とお尋ねしたことがあります。その時、横山さんは「そうですやろ、人間、人生経験を重ねると、悪いと思っても、そう簡単には頭は下がらんもんですわ。厄介なもんです。お念仏はそんな私を教えてくれますわ」とニコニコとしてお答えになりました。頭が下がらない厄介な我が身がきちんと見えているのでしょう。こんな詩もあります。

人間本来の姿とは、どんな姿だろうか。
何ひとつとして立派ということはない。
醜いこんな姿だった。
それを、仏さんのみ光に照らされて、
わからせていただいた。

本願の呼び声とは光でもあります。本願の光に照らされて煩悩具足のままを引き受けつつ、カメラ片手にいつもニコニコされていた横山さんのことが懐かしく思い出されます。

『今日のことば 2015年(9月)』 「煩悩の嵐の中にも 念仏において 本願の呼び声が 聞こえてくる」
出典:『念仏に聞く』