住職と共に福圓寺をおあずかりして二十年近い歳月が過ぎました。「在家からの入寺」という立場で、住職も私も寺の暮らしははじめてのことでした。経済的にやっていけるだろうか。見知らぬ土地で周りの人びとと上手く関係が築けるだろうか。不安な思いは尽きることなく、そして何よりも祖父母の所へ残してきた中学生と高校生の子どもたちのことが気がかりでした。思い返すと当時の私は仏法の話も寺での法務もどこか上の空で、張り切っても頑張っても、何かうそ臭い感じがぬぐえませんでした。
そんなぐずぐずした私の気持ちはともかく、住職は寺に入ってすぐに同朋会を始めました。福圓寺では、月に一度の集まりははじめてだったそうで、最初は三、四人の門徒さんが遠慮がちに参加していたのが、やがて七人、八人と増え、五年も過ぎた頃にはずいぶん賑やかな会になりました。毎月必ず出会う同朋会の方々は私にとってもかけがえのない友となり、いつの間にか寺での生活の支えとなっていました。
それにしても、十人居れば十とおりの人生があるとはこのことかと、驚くほどに同朋会の皆さんはさまざまな苦労や悩みを背負っておられました。息子さんを亡くされてはじめてお寺へ来るようになったFさんもその一人で、家族のために子どもの頃から料理屋に住み込んで働いてきたという苦労人でしたが、なんとも陽気なことが好きな人で、大勢人が集まると必ず場を盛り上げようと賑わいを演じて人を笑わせるのでした。まだ五十歳前だった息子さんが亡くなって少し経った頃、「嫁さんも私が世話になったんじゃ何かと大変だろうから」と家を出て一人で借家住まいを始めましたが、年老いての仕事も次第になくなり生活は日増しに窮していく様子でした。愚痴や人の悪口は野暮だといったFさんの潔い姿勢はどこか危うさが漂って見え、同朋会の誰もが密かにFさんのことを気にかけていました。
大家さんの都合で二軒目の借家へ移った頃からでしょうか、Fさんはどんどん身体が弱り、塞ぎ込むことが多くなりました。寺へ来るのも辛くなったようで、代わりに私がFさんの元へ時々訪ねていくようになりました。そして、亡くなる二日前のこと。一緒にアイスクリームを食べていると、ふいにFさんが泣き顔のような笑みを浮かべて「坊守さん、もうな、なんもかんもな、あずけてしまいとうなった」と言われました。
世俗の論理の行き詰まる事態を身をもって生きてきたFさんの、あのべそをかいているような笑顔を思い出すたびに、あの方の浄土を求める心が半端でなかったことを考えずにはおれません。私がFさんから最後に聞いた「もう、なんもかんも、あずけとうなった」は今、「なむあみだぶつ」と聞こえてくるのです。
『今日のことば 2015年(10月)』 「世俗の論理の 行き詰まることを 教えるのが仏法」
出典:寺報『海』