この法語は、称名念仏こそが阿弥陀如来の慈悲であることを表し、それが「往生之業」(浄土に往生するための行い)であるという、法然上人の「往生之業 念仏為本」の専修念仏(専ら念仏だけを称える)を語っています。『観無量寿経』には、最も罪深い者(下品下生者)は、日頃から自身を懺悔して仏さまの慈悲を憶念することなどはせず、ましてや死に際の切羽詰まった時に慌てて一生を懺悔して仏さまを憶念しようとしても、そのような暇はないのですから、残されているのは、ただ「なむあみだぶつ」と口に称えること(唯称念仏)だけですと説かれています。このことに基づいているのが称名念仏であり、それは極悪人のための念仏です。
この称名念仏について、親鸞聖人は、『大無量寿経』「願成就文」に説かれている「聞其名号 信心歓喜(本願の名号を聞いて、必ず浄土に往生することを信じる心を頂いて、そのことを歓喜する)」という言葉を大切にされています。これについて、親鸞聖人は「本願をききてうたがうこころなきを「聞」というなり」(『一念多念文意』真宗聖典五三四頁)と説明され、信心為本に立った聞名の念仏ということをおっしゃっています。私たちにとっては、みずからを省みるとき、この信心歓喜の聞名の念仏と極悪人のための称名念仏とが二重奏となって響いてくるのではないでしょうか。
ところで、念仏は「往生之業」ですが、それはどういうことでしょうか。たとえば、『歎異抄』の中で、「本願を信じ、念仏をもうさば仏になる」と語られています。これと対比するとき、この法語には「仏と成る」という目的が表示されていませんが、その「仏と成る」ための称名念仏が「往生之業」です。仏教は「仏と成る」ための教えです。それは釈尊の覚り(等正覚)に同意して生きる者となることです。私たち人間だけが生老病死に苦悩しますが、それはなぜでしょうか。自分の思いどおりに生きたいという自我が人間に深く根付いているからです。その自我を克服するために釈尊は、自我を基本として「私がいて、私が生きている」と思い込んでいても、そうではなく、実際には、ご縁のままに「生かされている私」であるという「いのち」の在り方を発見し、自我の束縛から解放されて、「仏と成った」のです。
しかし、私たちは、「生かされている私」であるという「いのち」の在り方に同意し納得しながら、相変わらず「私が生きている」という自我に束縛され、生死の世界に愛着し、できるだけ長く生きていたいと苦悩している自身の現実があります。その現実は「いのち」の終わる瞬間まで続くのでしょう。そうであっても、釈尊と同じように「生かされている私」という「いのち」を現にいま生きているのです。その事実に立って、如来の本願は、浄土に往生すれば必ず仏と成るのが私たちの「いのち」であることを明示しているのです。その本願を信じて歓喜するのが、親鸞聖人によって顕らかにされた聞名の念仏であり称名念仏です。したがって、念仏を称えた功徳によって仏と成るという利益がえられるということではありません。あくまでも仏恩報謝の称名念仏です。
『今日のことば 2015年(11月)』 「如来の本願は 称名念仏にあり」
出典:藤元正樹『願心を師となす』東本願寺出版