いまから750年ほど前の11月28日、親鸞さまは90年のご一生を終えられました。
その親鸞さまがご生涯をかけてあきらかにしていただいた教えを聞き、「ありがとうございます」と感謝するのが報恩講のおつとめです。
私たちが「ありがとう」と言うのはどんな時でしょうか。自分の欲しいものが手に入った時、自分の願いごとがかなったときなど、自分が何か得をした場合だけではないでしょうか。自分の損得をものさしにして、ありがたいか、ありがたくないかを判断しているのです。
ところが、このものさしほど当てにならないものはありません。状況によってコロコロと変わるからです。欲しくてたまらなくて買った物でも、時間がたってみれば部屋の片隅にゴミのようにほったらかしにされている、ということがよくあります。買ってくれた人に「ありがとう」と言ったことなどは、とっくに忘れてしまっています。
自分にいのちが与えられたことを「ありがたい」と感じたことのある人は、どれほどいるのでしょうか。多くの人は、自分が生きていることをあたりまえのように思っているのではないでしょうか。しかし、自分で心臓を動かすことができる人は一人もいません。また、いやなことがあっても、心臓は黙って打ち続けてくれています。
そのような、私たちが日ごろ考えたこともないようないのちの意味を教えてくださったのが親鸞さまです。すべてのものが平等に尊いいのちを与えられていることを示され、傷つけ合うことがどんなに悲しいことであるかを教えてくださいました。
親鸞さまは、私たちが欲しがっている物を与えてくださるわけではありません。私たちが損得のものさしを超えた世界に生きることを願っておられるのです。報恩講をおつとめするのは、親鸞さまの教えを聞いて、そのような世界に生きる者となるためです。
「ほとけの子」 秋のしおり 報恩講
『恩徳 ―ありがたいということ―』 (小松教区 一楽 真)