仏たちは みな
殊にすぐれた
無量寿仏の功徳を
たたえられる
(出典:十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なることを讃嘆したまう(以下略) 大経『真宗聖典』44頁)
仏法不思議という言葉がありますが、それは私たちが仏教の教えに本当に出遇ったときの感動を表す言葉だと思います。本来、私たちは仏の教えを聞く耳など持たないものです。私という絶対に譲れないものを立て続けているのですから、それを揺り動かし破ろうとするような教えは、聞けるはずがありません。まして私たちの能力や努力で、仏教が分かるはずもありません。仮に多少の能力や努力があったとしても、その全てを駆使して如来に背き逃げ続けるのが、私たちの本性だと思います。そんな者に仏教が恵まれるのですから、不思議としか言いようがないのでしょう。
私たちの分かる所からいえば、それはひとえに善知識の「護持養育」によるとしか言いようがありません。「護持養育」とは、赤子を育てるような優しさで横道にそれないように見護りながら、私たちの遅々とした歩みを、本当のことが分かるまでじっと待っていてくださるお育てを言うのです。その善知識のお育てによって、私の方に仏教の縁などあるはずがないと教えられてみれば、そんなことはすでにして如来の本願に見抜かれており、だからこそ如来の方から念仏の橋が架けられているのです。私を中心にして私の方からではなく、如来の方からという方向に目覚めると、これまでの世界が全く逆転するのです。
今までの人生の一切がこの時のためにあった。いいこと悪いこと、つらいこと嬉しいこと、目に見えること見えないことの全てがそのままで仏道に遇うためにあったと、人生の全てが輝き出すのです。都合のいい人悪い人、好きな人嫌いな人が、意味を変えないで、そのまま輝き出すのです。何一つ無駄なものはなかった、全てが私一人を仏道に押し出してくれていたのだと。
十数年前、私は、先生が命終わろうとしていた枕元で、感涙にむせんでいました。先生は全身が癌に冒され、内臓の癌が喉から出てきていましたし、頭に水がたまって変形するほどでした。全身を貫く痛みの中でも先生のお顔は明るく、ご自身の人生の全体がありがたかったと感謝し、お念仏を称えておられました。周りにいた者それぞれに親鸞聖人の言葉を贈られ、何よりも本当の仏道に遇えと勧めてくれました。そしてそこにいた一人ひとりの手を取って「ありがとう」とお礼を言って、浄土にお還りになったのです。自分の都合など遙かに超えて、仏様の命を生ききられた先生のお姿に感動し、いいとか悪いとか、好きとか嫌いとか言って生きている自分が、本当に恥ずかしくなりました。
先生は、清沢満之(きよざわまんし)・曽我量深(そがりょうじん)・金子大榮(かねこだいえい)という先生方がおられなかったら私のような者は仏教に遇えなかった者ですと言って、どんな人にも感謝を捧げておられました。「諸仏称讃」とは、人間の都合など超えて、あらゆる人が仏教に押し出してくれる諸仏であると仰げるような気宇広大な世界なのだと、先生に教えられたことでした。
延塚知道(日豊教区昭光寺住職・大谷大学教授)
『今日のことば 2007年(2月)』
※役職等は『今日のことば』掲載時のまま記載しています。