如来は倦むことなしに、背きづめ、違いづめの私に向かって照らし出してくださる。何が照らし出すのか、というと、「大悲」の心です。如来大悲とか大悲の本願などとよく聞きますが、どういう心か。金子大榮先生からお聞きしたんですが、「悲」とは非ずの心と書いて「悲」。非ずとは否定、「そうでないんだよ」という、首を横に振られるお心。私たちに「お前たちのしていることは、それで正しいと思っているかしらぬが、まちがっているんだよ。そうでないんだよ」と、目に涙をいっぱい浮かべながら、私たちに呼びかけられるのが、如来の大悲心。「大」の字がつくのは、一部分、局所だけの修正でない。根本から、全部まちがいだという大否定。
こんなふうに聞かされて、私はなるほどとうなずかされました。「何がまちがいなのだ。これで当たり前でないか。自分が正しいのだ」と、どこまでも突っ張りつづける私を、最後まで見放さず、見限らず、辛抱強く呼びかけ、照らしつづけてくださる。これが大悲の本願です。大悲のはたらきは、私に極重悪人の自覚を照射します。この否定心をはずしたら、いくら言葉ばかりをそれらしげに飾り立てても、真実報土にはつながらず、化土にとどまります。「極重悪人の我」と自覚されれば、歎き痛む心がわが内にこみあげます。「あいすまぬ、おはずかしい」と、歎異痛惜せずにおられません。それが「南無」です。ここが信心の必須起点です。金子大榮先生はこうもおっしゃいます。「南無阿弥陀仏は自我崩壊の響きです」と。
『真宗の生活 2007年(2月)』「大悲のはたらき」
『日暮らし正信偈』(東本願寺出版部)から・亀井鑛(名古屋教区珉光院門徒)
※役職等は『真宗の生活』掲載時のまま記載しています。