法身の光輪きわもなく  世の盲冥をてらすなり
法身の光輪きわもなく 
世の盲冥をてらすなり
   仏の光明は
全世界を照らし
さまたげるものは
何一つない
小経
出典:かの仏の光明、無量にして、十方の国を照らすに、障碍するところなし(以下略)          「真宗聖典』128頁

今、毎日何気なくお勤めしている『正信偈(同朋奉讃式)』の最初の「ご和讃」の、
法身の光輪きわもなく
()盲冥(もうみょう)をてらすなり
が、心に浮かんで参ります。如来の光明は世の盲冥という闇を照らし出してくださいます、と讃じられておられます。

「盲」とは、自分自らが目をつむって見えない闇。「冥」は、目をしっかり開けても見えない闇。「盲」という闇は、目を開けさえすれば、「ああ、そうだったのか」と身の事実・現実の姿に気がつかされることで、その闇は破られていきます。でも「冥」は、いくら目を開いても全く見えない未来という闇です。私たちは、現実に目をふさぎ、その視点を未来に追い求め、虚構(きょこう)を作り出しているのではないでしょうか。これが、私たち現代社会を(おお)っている闇ではないかと思うのです。

私たちは、未来に希望を掲げそれに向かって突進していきます。親も子も共々に「何々になりたい」「何々にさせたい」と一生懸命になっていきます。でもなれるかどうかは誰にもわかりません。それは、努力が足りないとか能力がないということだけの問題じゃなく、その途中にどんな業縁(ごうえん)を受けてどうなっていくか誰にもわないということなのです。

そうしますと、「わからないから希望が持てるんだ」といわれる方もおられると思います。それはごもっともです。でも、それを「冥」(闇)というのはなぜでしょう。私は、そこに闇の深さを思わずにはおれません。状況がどうなるかわからないという現象面だけではなくて、自分はなぜその仕事をしたいのか、その本質的な意味さえも見えてこないからです。

今、この現代社会も経済発展という名の下に未来に向かって歩んでいます。でも、それはなんのためなのか、どのような社会になりたいのか、私たち人間はどうなりたいのか、全くわかっておりません。それが未来という闇の深さなのでしょう。

今日ほど光に対して無感覚な時代はない。光があるのが当然だと思っている。でも、実際にあるのは闇だけだ。いくら二十四時間煌々(こうこう)と明かりをつけていても、闇はむしろその明かりのところへと群がってくる。そして、明るくすればするほど、闇は一層深くなっていく。
私たちは、“今” という現実をしっかり目を開いて見なければならないと思います。それもただ現象面ばかりではなく、その本質をも見定めていかなければなりません。本質を見定めるということは、如来の本願に巡り会うこと。本願という(はる)かに遠い“なつかしさ“を感ずる時、そのことによって、私たちの本質が、私たちの存在が照らし出される、そう思えてならないのです。
「仏の光明は、さまたぐるものをば、一つもらさず照らし出す」

榊 法存(山形教区皆龍寺住職)
『今日のことば 2007年(3月)』
※役職等は『今日のことば』掲載時のまま記載しています。