昨年完成した徳山ダムにいたる国道303号沿い、ひっそりとした山あいの勝善寺。住職の横山周導さん(84歳)は第2次大戦後の元シベリア抑留者で、NPO法人「ロシアとの友好・親善をすすめる会」の理事長を務め、長年シベリア墓参を続けています。「今年はイワノフカ事件から90年。ぜひ、多くの日本人が事件のことを知ってほしい」と願っています。
横山さんは大谷専修学院を卒業後、「旧満州」に渡りました。ハルピンの東本願寺布教者訓練所を経て吉林布教所に勤務し、1944年10月、ロシア国境近くの春花部隊に入隊。翌45年8月9日、侵攻してきたソ連軍と戦い、流浪の後、9月中旬、収容所に送られました。「辛かったのは零下60度、70度という極寒のなか、鉄道敷設のための重労働に従事させられたことでした」。それでも粗末ながらも食料は与えられ、何とか耐え抜きました。しかし、「軍本部は日本に帰ってしまい、男は兵隊にとられて取り残された開拓団家族が現地で味わった苦しみ。目の当たりにしながらも、捕虜の身ではどうしてやることもできなかった」。その「申し訳なかった」という強い自責の一念が、後に横山さんをシベリア墓参へと導くことになったのです。
墓参を続けるなか、大戦前に日本軍が起こした「イワノフカ事件」の惨劇を突きつけられました。この事件は1918年から1925年にかけてのシベリア出兵で起きました。民衆によるパルチザン(義勇軍)の抵抗に大打撃を受けた日本軍は1919年3月22日午前10時、パルチザンの拠点とみなしたアムール州イワノフカ村を包囲し、砲火を浴びせ、村に火を放ちました。300人余の村人が殺され、うち36人は小屋に閉じ込められて焼き殺されたのです。事件は日本ではまったく公にされず、70年余を経た1991年、現地を訪れた全国抑留者補償協議会の斎藤六郎会長に、村人は旧日本軍の残虐な行為を明らかにしました。村人との交流が始まり、1995年には日ロ共同追悼碑が作られ、横山さんらは毎年参拝を続けました。その後、将来にわたって参拝を続けられるようにとの願いからNPO法人を立ち上げ、村民と親交を深めてきたのです。「共同追悼碑を建てたからには誰かが参拝し、謝罪の気持ちを表さなければ…」。
こうした活動の一方で、実に60年間、寺報を発行し続けているのも住職としての横山さんの素顔です。復員後、1949年12月号から始まった勝善寺報「同朋」は今、450号となりました。「村内よりも村外、県外への送付が多くなりました」。ひたむきに続けるシベリア墓参と寺報の発行。「信念の僧侶」、横山さんはわたしたちに大きなメッセージを投げかけています。
(大垣教区通信員 林 文照)
『真宗 2009年(8月)』
「今月のお寺」大垣教区第9組勝善寺
※役職等は『真宗』誌掲載時のまま記載しています。
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