広大無辺の歴史社会に呼びさまされ召されゆく感動のひとこえ、“なむあみだぶつ なむ……”
広大無辺の歴史社会に呼びさまされ召されゆく感動のひとこえ、“なむあみだぶつ なむ……”
     浄土への道
彼方(かなた)ではなく
私の足元にある
里見淳英・作

たまたま東アジアの片州(へんしゅう)日本の地に生を受けられた親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、生涯をかけて『顕浄土(けんじょうど)真実(しんじつ)教行(きょうぎょう)証文類(しょうもんるい)』という浄土真宗が成り立つ根本聖典を書き残していかれました。同時に聖人の御一生は「ただ念仏して弥陀にたすけられよ」のひとことで、人類誕生と共に等流(とうる)されてきた念仏の聖流に預り、「浄土の真宗は証道(しょうどう)いま(さかり)なり」と(ひょう)(びゃく)し、流罪という法難(ほうなん)に全存在を(たく)し、法難を共にされた師法然(ほうねん)上人(しょうにん)の「われ首きらるるともこのこといわずはあるべからず」との念仏無碍(むげ)の大道を証されたという物語が口伝(くでん)されています。このことがどれほど名もない多くの人びとに生きる底力(そこぢから)(よみがえ)らせたことでしょう。

事実、1967(昭和42)年、真宗大谷派教団がおこした差別事件により部落解放同盟の方々―真宗の御門徒衆(もんとしゅう)から厳しい糾弾(きゅうだん)を受けました。その時、いわれのない差別を受け塗炭(とたん)の苦悩生活の中にあって、かの「首のとぶ念仏」を血肉として生きぬいておられる生きざまに出遇うて受けた感動が今なお忘れられず、ひとつの問いを発させてきます。「私に称えられるお念仏とは何なのか」と。

近年、「いのちを大切に」という文字や言葉がしきりに目につき耳にいたします。こうした中から身心の健康ということが最大の関心事になっているのが今日の一特徴であります。老人・若者を問わずいろいろと自分に合うスポーツ、体操などの健康増進法、または健康食品の普及、これまた目ざましい。このような健康第一というキャンペーンにより医療面においても予防検診、早期治療と盛んに推進されています。健康優先の意識を各自がもつことは至極(しごく)当然のことであり、実際、全国的にどの保健組合でも医療費が年々増大し、健康保険機構にとって大きい課題になっている現状です。

しかし、人間の視界にはどこか死角があるということが見落とされていないでしょうか。死角をもっていることの無自覚さに気づくことなく、いのちの大切さを主唱(しゅしょう)し、健康であることの喜びを満喫(まんきつ)している実状に対して、「健康は罪悪と背中合わせ」と、まことに妖怪なことばを聞いたことがあります。

“何はなくとも健康が一ばん 息災(そくさい)で幸せ もったいない……”という喜びの暮らし。――ここには(からだ)のひ弱い、病める人が見えているでしょうか。“ハイ、見ています”――「あの人はお気の毒だ、可愛想に……。あの人に比べれば私はなんと幸せだろう……。」――この恐ろしい慠慢(ごうまん)。自分ひとりの喜びにしがみついている貧欲(どんよく)。このようなはずかしい自分に気づいていない破廉恥(はれんち)。無感覚存在。全く手のつけようがない。血も涙もない石ころに等しい存在。この存在が寝てもさめてもへだてなく見据(みす)えられ、常に()むことなく注がれてある仏陀(ぶっだ)の大いなる慈悲の目ざし――「仏心というは大慈悲(だいじひ)これなり。無縁の()をもってもろもろの衆生(しゅじょう)(せつ)す」(『真宗聖典』106頁)と。(ああ)……。大慈悲の仏地を私は泥足で踏みつけて生きている。この踏みつけている泥足をしっかり支えている悲願(ひがん)の大地。

貧しい喜びがそのまま大悲(だいひ)の海水に()けて一味となる。阿弥陀(あみだ)の大慈が死角存在の私を(我として)生きる。
広大(こうだい)無辺(むへん)の歴史社会に呼びさまされ召されゆく感動のひとこえ、“なむあみだぶつ なむ……”

立野義正(高岡教区西岸寺前住職)
『今日のことば 2006年(5月)』
※役職等は『今日のことば』掲載時のまま記載しています。

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