如来の 智慧の海は 広く底がない
(出典:『大経』)
(出典:如来の智慧海は、深広にして涯底なし「真宗聖典」50頁)
「底が知れてる」という言葉があります。日ごろ何か行事を催そうとすれば、前日は空模様が気になり、天気予報を見て一喜一憂することがあります。現在では気象予報士という方が中心になって我々に天気を伝えてくれます。
しかしどれだけ気象についての緻密な計算とデータによっても、年間で予報の当たる確率は7割がよいところだそうです。人類がこの地球というところに誕生した、その遙か昔から雨が降ったり雪が降ったり風が吹いたり、天気は地球というところで繰り返してきた歴史があるわけです。人間の歴史を越えて天気の歴史を感じない、人間の底の浅さを気づけなくなった時代、科学の進歩こそが幸せを導きだすものとして疑わず邁進してきたのが今日の人間の危機と言えるのではないでしょうか。
我々の先人は、その底の浅さを気づかされて、「業の深い身」あるいは「罪を造り続ける身」と名告りをされてきました。
先般、ある研修会で講師から、小泉総理大臣が毎年実行している靖国神社参拝問題で、アジアの国々から批判を寄せられていることに対して「今、経済の面でも、文化交流の面でも、より友好な関係を結んでいるにもかかわらず、この一部のことで全てを無にしてしまうような、中国や韓国の批判発言は理解できない」ということを公に発言された問題を通して、日本国民もある意味で、この発言に同調してしまうような体質構造になっているとの指摘を受けました。
一昨年4月、中国・韓国においてなされた「反日デモ」がテレビを通して報道され、これは両国における半日教育が功を奏してなされたこととして流されました。そしてあのデモの大多数が学生であり、その学生の親世代は戦後の生まれであります。国家による教育に影響されることは確かにありましょう。しかしこの「反日デモ」に参加した学生には、親から、また祖父母から語り継がれてきたことから生じた反日感情が、この参拝によりデモという行動になったことを、今の日本人には見えない在り方になってしまっているのではないでしょうか。
明治以降、文明開化の名のもとに、過去を切り捨て新しい時代に向かう歩みが、これからの日本の在り方として出発し、未来思考という考えが横行し、今を迎えているわけです。
自分の知らない過去の事は関係ない、「いつまで過去にそんなにこだわっているのか」という風潮が蔓延しています。
親鸞聖人の和讃に「三世の重障みなながら」という言葉があります。過去未来現在の罪を背負って生きる、知らずしらずのうちに罪を重ね造り続けて生きる身、それが「業が深い身」と知らされ、そこに立って責任を持って生きられた真宗の門徒が我々の先人ではなかったのでしょうか。
片山寛隆(三重教区相願寺住職)
(『今日のことば』 2007年5月)
※役職等は『今日のことば』掲載時のまま記載しています。