仏は濁れる世に 信じ難き法を お説きになる (『小経』)
(出典:我五濁悪世にして、この難事を行じて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、一切世間のために、この難信の法を説く
「真宗聖典」133頁)
朝の台所で炊飯器が「炊けた」とピーピー鳴っている。洗濯機も洗い終われば知らせてくれるし、レンジも「忘れてるよ」と注意してくれる。
パソコンを開けば世界中のあらゆるものが覗けるし、ケータイのおかげで行動や友人関係を親にあれこれ口出しされることもなくなった。
あふれる情報、飛び交う知識。
便利になった分、騒がしくなった日々の暮らし。
なのに次々と起こる出来事には、窒息しそうな命や萎縮する命が見え隠れする。
生きる情熱の湧かない命、わけのわからない何かの中でもがいている命が、時代の病を抱えながら途方にくれている。
「もっと」と手を伸ばした先にある理想は、手が届かないだけでなく、逆に「なぜここまで来られないのか」と責め立てるし、「このままではいけない」と思いながら、身も心もふらふらと行き場を失くしている。
なぜもっとゆっくり深く息が吸えないのだろう。
なぜもっと遠くを見つめていられないのだろう。
自分の中に湧いてくる不安や焦りや孤独感。その原因を探ることはできても、湧いてくる思いを抱え続けることができない。すぐに解決したい、今すぐにそこから解放されたい、という思いに囚われてしまう。
その不安の中にこそ、耳を傾けなければいけない声があるというのに。
以前「駒草」という、高山植物を見に行ったことがあった。高原の一画が柵で囲われ、見に来ている方が何人か柵から身を乗り出すように探している。じーっと地面を見てもなかなか見つからない。
しばらくすると「あった!」の声。そちらに行ってみると、声の主が指差す先に本当に小さい小さいピンクの花が。「あった!」「あんなに小さいのか」等々、周りでもいろんな声が起こり「あ、こっちにも」「あ、ここにも」。よく見ると私のすぐ足元にも咲いていた。
一つの花を見つけると次々に見えてくる。今まで見えていなかった花がどんどん見えてくる。ない、と思っていた花が実は足元に群生していたのである。
ただ眺めていたわけではない。駒草を探していたのに見つけられなかった私の目は一体何を見ていたのだろう。見なくてはならないものを見ずに、意識は一生懸命に探しているつもりだったなんて。
濁ったこの世で本当に何を聞け、何を見ろと教えてくださっているのだろうか。
その声を私は聞くことができるのだろうか。
小野沢佳江子(東京教区円照寺)
『今日のことば 2007年(7月)』
※役職等は『今日のことば』掲載時のまま記載しています。