以前、「なぜ人を殺してはいけないのか」という若者の問いに、知識人をはじめとする大人たちがちゃんと答えられなかったことが話題になりました。最近では、インターネットで知り合った人たちが車の中で練炭を燃やして集団自殺をするということが伝染したり、また、幼児虐待事件が相次いで起こっています。
今日ほど、いのちが見えなくなっている時代、いのちを感じることができなくなっている時代はないのかもしれません。
最近、北海道の旭山動物園の園長さんがテレビでお話なさっているのを見ました。数年前には、動物園は訪れる人も少なく、廃園の危機に追い込まれていたそうです。それが今の園長さんや職員の人たちの努力で、今では大変な人気で、北海道だけでなく、全国から大勢の方が見にくるほどになったといいます。
園長さんは言われます。「動物園の外を歩いている人たちはみんな難しい顔をしているでしょう。でも、動物園の中ではみんなとてもいい表情をしています。それは動物を通していのちを感じているからなんです。いのちは見るものではなく、感じるものなんです」と。キリンが亡くなったら、檻のところに「喪中」の知らせを出す。いつ亡くなったか、どういう病気だったか、このキリンは全国で2番目に長生きだったとか。また、事故や病気で運ばれてくる動物がいたら、その治療の様子もみんなに見せる。誕生し、老い、死んでいくいのち。そういういのちをそのまま感じてもらう。いのちのはかなさ、いのちのかけがえのなさ、そしていのちは地球のネットワークの中で生きている。いのちを伝えたい、そんな思いにあふれた動物園づくりをなさっておられるのです。
いのちは誰のものか。大谷専修学院で院長をされていた信國淳先生は、お釈迦さまのお話をとりあげて説明なさいました。少年のお釈迦さまがいとこの少年ダイバと森に遊びに行かれました。ダイバは森の上を飛んでいる白鳥を見つけて矢を放ち、それが当たって白鳥は地面に落ちたのです。それを見た少年釈迦は、一足早く傷ついた白鳥を抱き上げました。ダイバは「その白鳥は自分が射落としたのだから自分のものだ」と言いました。お釈迦さまは「自分が先に見つけたのだから自分のものだ」と言いました。両者決着がつかないので、国の賢者を集めて決めてもらおうということになりました。そして、ある賢者が最後にきっぱりとこう言ったというのです。
いのちは、それを愛そう、愛そうとしている者のものであって、
それを傷つけよう、傷つけようとしている者のものではない
その賢者の言葉はあまりにも厳粛な調子を帯びていたので、だれもがそれに従わざるをえなかったと、そういうお話です。
信國先生は、賢者の言った「いのちは、それを愛そう、愛そうとしている者のものであって、それを傷つけよう、傷つけようとしている者のものではない」という言葉こそ、「私どものいのちを支配する永遠の法則」なのだと言われました。
人間の欲望が肥大化し、食生活が産業に組み込まれ、遺伝子組み換えやクローン技術など、未来の自然が奪いとられている現代です。アメリカでは普通のサケに比べて10倍の速さで成長する怪物サーモンも開発されているそうです。
いのちがモノのように扱われ、その結果、自分のいのちも人のいのちも感じられないようになってしまった私たちへの、いのちからする警告の言葉が「いのちは誰のものか」という言葉であるのです。
ラジオ放送『東本願寺の時間』から・花園彰(東京教区圓照寺)
『真宗の生活 2006年(9月)』
※『真宗の生活2006年版』掲載時のまま記載しています。