宗祖晩年の周辺と初期の教団
松本 専成
(京都教区近江3組安養寺前住職)
私は47年前の昭和35年8月、教学研究所が発行した『新訂親鸞聖人行実』(以下、『行実』と略す)の編集にかかわりました。当時は戦争中の規制や戦後の物不足からようやく解放されつつあった時期で、真宗史研究も多くの蓄積をかかえていましたから、『行実』も皆様に迎えられたように思います。
まもなく私は、一身上の都合で真宗史研究から離れました。その後定めて進んでいるかと思われる学問の成果に不案内ですので、これから申し上げることは皆様にとっては常識でありましょう。往年を想起しながら、聞き伝えたことどもをお話したいと思います。
帰洛の年時
宗祖聖人が京都へお帰りになったのは、聖人が62~3歳の頃といわれるのですが、その根拠は『恵信尼消息』(以下、『消息』と略す)の記事と宗門内の伝承であります。『消息』第5通に見える佐貫における親鸞聖人の三部経千部読誦の発願と中止は建保2(1214)年のことで、佐貫は武蔵であったか上野であったか,はっきりしないと『消息』にあるのは、滞在期間が短かったことを想像させます。私たちはその頃に聖人夫妻が関東へ入られたと考えるのです。聖人の関東滞在は20年間だったと室町時代の宗門内の諸書が一致して伝えるので、聖人の帰洛は、嘉禎元(1235)年頃62~3歳であったということになるわけです。
聖人が深刻に自力の執着心を内省された59歳(寛喜3〈1231〉年)の前後は、夏の大干ばつの後が大風雨、台風の襲来で、餓死者は出る、疫病は流行する、地震が起るというように、偶然にも悪いことが重なっておりました。やむなく経典を転読して衆生利益を図ろうとされたが、観仏と菩提心と理観と読誦の行は念仏を障えるものだという法然上人の教え(『選択本願念仏集』付属章)を思い合わせて、中止されたのです。宗祖聖人の生涯には何度もあったであろう深刻な飢餓、飢饉の1つです。これは晩年の文応元(1260)年11月の乗信宛の聖人88歳の消息においても、
「なによりも、こぞことし、老少男女おおくのひとびとのしにあいて候らんことこそ、あわれにそうらえ。」(『末燈鈔』・聖典603頁)
と同感されて、
「まず、善信が身には、臨終の善悪をばもうさず、信心決定のひとは、うたがいなければ、正定聚に住することにて候うなり。さればこそ、愚痴無智のひともおわりもめでたく候え。如来の御はからいにて往生するよし、ひとびともうされ候いける、すこしもたがわず候なり。」(同前)とお同行を賞賛され、「としごろ、おのおのにもうし候いしこと、たがわずこそ候え。」(同前)という喜びの味わいにもなさっているように思われます。
関東の親鸞聖人
いったい全体、関東の親鸞聖跡とされているところは、どのようなところなのでしょうか。細川行信先生からこんなお話をうかがったことがあります。先生も学徒動員から大学に戻ってこられた。さてこれから、ご自身の学問をどうするか。思案なさった末に、関東に聖跡巡拝にお出かけになったのだそうです。
聖人のご消息に出てくる茨城県の東北部、あの水海道から鹿島・行方・奥郡を、南条文雄先生の『親鸞聖跡』などを手に、ゲートルを巻いて徒歩でお訪ねになった。あるところからは、御旧跡寺院の住職のご好意のままに、道案内をお願いされたのだそうです。その御住職は自分とそう歳も変わらない若い方であった。旧知のように思えて「真宗中学は何年のご卒業でしたか」と訪ねたら、意外や「私は京都には行っていません」という返事。「どちらでしたか」「地元の農学校です」「どうして」「私のお寺の周辺は米作りの適地ではありません。ようやくこんにゃく芋を作って生計を立てています。京都遊学など夢のようなお話です」ということでありましたとおっしゃっていました。
なるほど言われてみれば、高田派のご本山の旧地、栃木県下の聖跡も、関東平野が山地にかかる辺りです。宗祖ご一家が関東へ出られて最初に住まわれたという下妻草庵の場所も、現在でも周りに人家もない瓦礫の集積所のようなところでした。私たち関西の者が観光バスであの地方に行きますと、案内するバスガイドさんは、今でこそ筑波学園都市、原子力の町、近年人気のサッカーチーム「鹿島アントラーズ」の本拠地で知られていますが、新幹線も高速道路もない田舎だと言います。
関東平野は大きな河川がたくさん存在して、それぞれが洪水で流れを変え、「まいないつぶれ」で名を残した田沼意次らが江戸中期に大規模な干拓に成功するまでは、その豊かさを人々に享受することを許さぬ厳しい自然環境であったようです。初期の真宗教団を考えるとき、このことは頭においておく必要があるように思います。
聖人の家族
それはひとまず措いて、一応宗祖聖人の帰洛年次を嘉禎元(1235)年、聖人63歳として、その家族の年齢を考えてみましょう。『口伝鈔』で、本願寺第3世覚如が、恵信尼公について「男女6人の君達の御母儀」(聖典663頁)と伝えていますから、聖人と恵信尼の間に6人の子女がいたことは確かでしょう。『消息』には信蓮房、小黒女房、益方入道、覚信尼の名が出てきます。善鸞も聖人のご消息にたびたび出てきて、夫妻の子であることに間違いありません。あと一人の名は、『日野一流系図』には高野禅尼といってありますが、この系図の編纂は聖人滅後300年も経っているので、すぐには信じられないけれども、それはそれとして、聖人63歳のとき、これら家族はそれぞれ何歳だったのでしょうか。
恵信尼は寿永元(1182)年生まれで54歳。信蓮房は建暦元(1211)年3月3日生まれで25歳、覚信尼は元仁元(1224)年生まれの12歳、これは間違いありません。『日野一流系図』によると小黒女房と善鸞は、信蓮房より早く生まれたはずだから26~8歳。益方入道と高野禅尼は12~25歳ということになります。
ところが『消息』第3通の終わり近くをみると、小黒女房と益方入道の子女について「親も候わぬ小黒の女房の女子、男子、これに候ううえ、益方が子どもも、ただこれにこそ候えば、何となく、母めきたるようにてこそ候え。」(親を失った小黒の女房の女児と男児をひきとっているし、益方の子どももいつもこちらに来ております。こんな幼い者どもの世話をしておりますと、なんだか子持ちの母親になったような風情であります。―松本取意・聖典618頁)と恵信尼の気持ちが書かれてある。
この『消息』は、弘長3(1263)年か文永元(1264)年のものか、わかりませんが、聖人帰洛後約30年を経ており、ともかく恵信尼は80歳を過ぎています。そんな老婆が面倒を見ている子どもたちが20歳前後になっているとは思えません。
しかし『日野一流系図』を信ずると、この当時の小黒女房は54~8歳のはずで、彼女が普通に結婚していればその子たちが80歳を過ぎた恵信尼に面倒を見られるほど幼くはなく、もう少し歳をとっていたはずでしょう。それが、『消息』によれば事実幼い子たちなのですから、『日野一流系図』の順序どおりに生まれたのではなくて、信蓮房が長男で聖人の帰洛当時25歳、それから小黒女房、善鸞、益方入道、高野禅尼がいて、末娘覚信尼は12歳だったと考えるのが素直でしょう。
すなわち子女たちもいったん京都へ行き、恵信尼の俗縁関係などから結婚して越後へ下っていった。結婚後,小黒女房は早世し、益方入道の妻もおそらく早世したので、孫たちの世話のために恵信尼が越後へ下って行ったのであろうと考えておこう、というのが派内学説の大勢なのでした。
善鸞の子の如信は『最須敬重絵詞』巻六によれば、正安2(1300)年1月4日に歿しています。そして『叢林集』によれば、如信は62歳だったというから、その誕生は延応元(1239)年(聖人67歳)となります。すなわち善鸞の結婚はおそくとも、この年より前で、信蓮房より年下だとすると30歳くらいで丁度よくなります。関東へ下って善鸞事件を引き起こしたのが善鸞の40代のことになりましょう。そこまでは言いすぎでしょうか。少なくとも聖人の子女が結婚するのは聖人の帰洛後のことであり、聖人一家の離散を経済問題に結びつけるのは誤った理解といえると思います。
住 居
帰洛された宗祖のお住まいは、五条西洞院にありました。約20年間はここにおられたが、御入滅地は実弟尋有僧都の里坊善法院であって、その位置は「押小路南万里小路東」(『御伝鈔』・聖典736頁)、「三条とみのこうじ(富小路)」(『末燈鈔』・聖典603頁)といわれてあるところです。西本願寺はその位置を右京に比定して角坊別院を造っておられますが、右京では両者は重ならず、左京でなくてはなりません。明治の初めまで大谷派法泉寺のあった現在の柳池中学①の位置が、まさしく745年前の宗祖聖人入滅の地なのであります。
聖人帰洛のころ12~3歳であった覚信尼は、17~20歳前後に日野広綱と知り合い、結婚して寛元元(1243)年に覚恵が生まれました。この覚恵の子が本願寺3世覚如です。まもなく女児も生まれましたが、思いがけず広綱が建長元(1249)年に死去して彼女は寡婦となり、2人の子を連れて聖人夫妻の許に帰ってきました。その後建長4(1252)年に善鸞一家が常陸あたりへ下り、 建長5年末ないし6年には恵信尼が越後へ下って行ったようです。そのとき恵信尼は下人を覚信尼に譲りましたが、その譲状を覚信尼が焼いたというので、建長8(1256)年に2度3度恵信尼は譲状②を書き送っています。
高田派本山専修寺に伝わる12月15日付の真仏宛聖人真蹟のご消息には、
「円仏という人が主人にも断らずに上洛してきた。仏法への志の深さがさせたことであるから、円仏の主人にとりなしてやってくれ。自分はこの10日の夜に焼亡にあった。それで住居も変わったのに、よく訪ねてきてくれた。円仏がそちらへ帰ってからも、よく導いてあげてください。」(松本取意・聖典610頁)
というような内容が出ております。この12月10日に火災にあったというのは何年のことか。善鸞の義絶は建長8年6月29日、建長8年7月9日までは聖人と覚信尼は同居していたのですから、その前年建長7(1255)年の暮れということになります。83歳の親鸞聖人は本当に心身多忙であったのです。
初期教団のかたち
この頃関東の教団はどのようなものであったか。聖人のいわゆる伝道教化はどのように行われたものであったかを考えて見ましょう。
法然上人は黒谷や白川に本坊を持ち、吉水には中坊を持っておられました。本尊として木彫りの阿弥陀像を用いておられたようであります。安阿弥(快慶)など慶派の仏師作の優品が、鎌倉期からの由緒を伝える浄土宗寺院に数多く伝来します。親鸞聖人の本尊は名号です。史上最古の名号本尊は、親鸞聖人の筆なのです。坊舎はお造りになっていません。当時盛んだった「唱導」のような、巧みな弁舌で人々を感動させる類の教化ではなかったと考えられます。それは、今日に残る門弟の消息が、論理的思惟をつくして教えを受け取ろうとする姿勢であることで、知ることができます(「慶信上書」や「浄信上書」を参照・聖典583~8頁)。
そうなった外的条件の1つに、散在する辻堂が挙げられましょう。地蔵堂、太子堂、如来堂の類です。栃木県高田本山は如来堂に、滋賀県野洲市内の木部派本山錦織寺は毘沙門堂に始まっています。三河の妙源寺も「柳堂」と呼ばれる太子堂に始まるようです。関東地方には、集落の辻堂の月に1度の縁日に、住民が全員仕事を休んで参加する慣習があったことが知られています。宗祖聖人も人々とともにそこにおられた。縁日のたびに、人々と談合される聖人の姿があり、それにつれて聖人の信心が人々の間に浸透していったと考えられるのです。ですから、本尊とか寺院形態がどうであるとかは、ほとんど問題にならないくらい自由であったのだと思われます。
もう1つ考えるべきは、信心を同じくする人々が集会を持っていたことであります。『親鸞聖人御消息集』広本第13通などに「廿五日の御念仏」(聖典578頁)と見えるのは、親鸞聖人や同行が、建暦2(1212)年の法然上人の示寂後、その命日に集まって念仏したことを言ってある。すなわち縁日だけではなくて、自分たちの集会の日を持つようになったのです。聖人御入滅後は27日(弘安3〈1280〉年11月11日「信海等告念仏衆状」)、あるいは28日(長野県松本市・「正行寺文書」)に変わっていきますが、この慣行はずっと長く続いたものと思われます。覚如上人の『報恩講私記(式文)』(1294年)もその線上に考えることができるでしょう。
月に1度集まって念仏するようになると、集落の辻堂のほかに、自分たちだけの集まる場所を求めるようになって、各地に道場が現れるのです。道場が出現するのも、おそらく聖人帰洛後のことと考えられます。
『改邪鈔』9条に、
「祖師聖人御在世のむかし、ねんごろに一流を面授口決し奉る御門弟達、堂舎を営作するひとなかりき。ただ道場をばすこし人屋に差別あらせて、小棟をあげてつくるべきよしまで御諷諫ありけり。」(聖典684頁)
と覚如が伝えていまして、比較的多人数の便宜を考えた程度の規模であったわけです。
文献に見える早期の道場は、『三河念仏相承日記』に、正嘉の頃に念仏に帰した35人の1人、庄司太郎が、
「顕智上人を平田にいれまいらせて道場たつ。正嘉元(1257)年已上」(『真宗史料集成』第1巻、再版,1026頁所収を平仮名表記に改めた)
といっています。さらに続いて
「つきに信願御房、あつうみの庄あかそぶにして、またはしめて道場をたつ。そののち、国中の道場はんしやうするところなり。」(同前)
と出てきます。門弟の増加が道場新設をまねいたのでしょう。それで本尊としての名号が考えられるに至ったものかと思われるのであります。
初期教団の道場の機能とか規模をこう推察できるとすると、それが、習俗に染み込んだ土着的な宗教に心を寄せていた民衆に、どうして聖人の信心が受け継がれたのかという、なぞを解く鍵であろうと思われるのであります。