目次
来年345回を迎える蓮如上人御影道中。第1回目はどのように始まり、どのような起源をもつのか。次代につなぐため、名古屋教区教化センター研究員の小島智さんが、御影道中の歴史と記録に迫りました。
『センタージャーナル No.102』(名古屋教区教化センター発行)
研究員特別レポート「蓮如上人御影道中の起源に関する覚書」
小島 智(名古屋教区教化センター研究員)
はじめに
2015年、筆者は名古屋教区第4組・推進員養成講座前期教習の講師となり、そのカリキュラムとして蓮如上人御影道中を歩く御縁をいただいた。それは御下向のみの、それも1日(4月22日)だけの参加であったが、何ものにも代えがたい体験であった。さらに今年になり、上人御影の吉崎別院御到着にも出会わせていただいたことは、改めて真宗の信仰文化を考える貴重な機縁ともなった。本稿では、第4組で行った御影道中事前講義のうち、とくに道中の起源についてまとめておきたいと思う。
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この御影道中は周知のとおり、真宗大谷派吉崎別院(福井県あわら市)にて毎年4月23日から5月2日まで勤められる蓮如上人御忌法要に際し、本山(東本願寺)所蔵の上人御影を御櫃に収め、さらに御輿に載せて、吉崎別院までの間を往復徒歩でお運びする仏事である[表紙写真参照]。
吉崎別院への御下向は4月17日から23日まで、寺院・門徒宅に立ち寄りながら進む6泊7日の行程であり、復路である本山への御上洛は、5月2日から5月9日までの7泊8日の行程である。
そして、そこで運ばれていたのが上掲写真(A)の蓮如上人御影である。
ただしこの御影は、1999年10月に所有権が真宗大谷派から離れてしまった。その為、2000年4月、吉崎別院に奉掛されていた享保6(1721)年下付の御影を「御帰山」させ、以後そちらをお運びし御忌法要が勤修されるようになっている。しかし、御影道中の由来を尋ねるには、やはりそもそもの上人御影を調べる必要があるので、まずはその裏書を確認しておこう。
上の裏書記録からこの御影は、本願寺が東西分派してしばらくの慶長16(1611)年、東本願寺教如上人から「越前国坂北郡細呂宜郷吉崎惣道場」に下付されたものであることがわかる。文明7(1475)年8月に蓮如上人が退去してからの吉崎坊舎は、永正3(1506)年、越前朝倉氏によって破却され廃坊となったが、その後、坊舎跡山下に2つの道場が建てられ、それが本願寺の東西分派とともに東派と西派に分かれたという① 。
この裏書にある「吉崎惣道場」とはそのうちの東派道場のことであり、この道場が吉崎惣道場願慶寺となり、吉崎御坊願慶寺、そして御坊と願慶寺が切り離され、さらに明治期に御坊が別院と改称されて現在に至るわけである。
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では、御影道中はいつから始められたのであろうか。実は、これに関しては今まで明確な記録が確認されておらず、はっきりしていない。しかし、伝承に基づくいくつかの説が語られており、主に延宝年間(1673~81)、享保7(1722)年、宝暦年間(1751~64)の3説に分けられるようである ②。
ちなみに、真宗大谷派としては今年で344回目としているので、年1回行われてきたとすると、その開始は延宝2(1674)年となり、延宝年間説によっていると言える。
この延宝年間説は真宗大谷派宗務所出版部発行『蓮如上人絵伝の研究』(1994年)の扉絵にある、蓮如上人御影解説でも言及されているが、同年に同出版部より発行された『蓮如上人行実』所収の「蓮如上人年譜」では、宝暦4(1754)年に始まるとあり(233頁)、必ずしも見解が一致しているわけでもなさそうである。
そのような中で、筆者としては享保7年説に注目したい。これは福井県金津町吉崎史編纂委員であった朝倉喜祐氏によって提唱されたものであるが、吉崎別院に隣接する願慶寺所蔵の膨大な古文書に基づくもので、その著書『吉崎御坊の歴史』(1995年、国書刊行会)に詳述されている。願慶寺の古文書群は現在その一部が北西弘氏により翻刻出版され③ 、御影道中に関連する記録も見ることができるが、特に享保6年の次の文書は御影道中の起点として重要である。
これは東本願寺坊官より吉崎御坊に宛てられた文書で、先述の享保六年下付蓮如上人御影の添状である。これに先立つ天和2(1682)年、吉崎惣道場は寺号を授与され「吉崎惣道場願慶寺」となり、さらに享保6年、願慶寺は御坊に取り立てられ「吉崎御坊願慶寺」と称されるようになるが⑤ 、それに際して8月28日付で達せられたのである。
これによって、御坊取り立てと同時に、古く損傷のある慶長一六年教如上人下付の蓮如上人(信證院)御影は本山へ上納され、代わって新たにその写しが下付されたと推測されるのである 。
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しかし、教如上人下付の御影は、延宝5(1677)年、東西本願寺の吉崎山上所有権をめぐる争いに対し、江戸幕府がその山上を直轄地として双方の管理を禁ずるまで、蓮如上人御忌法要の際には山上に移され仮屋に奉掛されて、お勤めがなされてきたものであった⑦ 。
延宝6年からは山下の惣道場にて勤められることになったが、吉崎の門徒衆にしてみれば、山上御旧跡地で蓮如上人と相まみえる「生身の御影」として、語り継がれてきたものであったろう。故に、御忌法要にはこの御影がなくてはならなかったのであり、法要期間のみ本山より「お返し」いただき、法要後にはまた本山へ上納する御影道中が始まったと考えられるのである。
さらに、それを裏付けるものとして、文政7(1824)年10月に本山へ提出された願慶寺の由緒書がある。ただ残念ながら、全体を翻刻したものが刊行されておらず、実際の文書も管見に及んでいない。しかし、朝倉喜祐氏の前掲書に、同氏翻刻のものが一部掲載されているので、関係箇所を引用しておきたい。
慶長年中、祐念より四世祐親は教如様に御帰依申しあげ、同拾六年二月、蓮如様御影、教如様御自画、御銘御裏等御染筆あそばされ祐親へ御手ずから御授与なし下され候事。
但し此の御影享保六丑年より御本山へ御引上げに相成り毎年三月御下向の事 。
ここから、少なくとも文政7年までは、蓮如上人御影道中は、享保6年の本山への教如上人下付御影「御引上げ」が起点となり、翌年より始まったと認識されていたと分かるのである ⑨。
さて、延享4(1747)年9月、新たに吉崎御坊本堂が落成する。これ以後、吉崎御坊と願慶寺は分離、願慶寺は「御坊列座役留守居」となり⑩ 、御忌法要も御坊本堂にて勤められるようになったと思われる。
むすびにかえて
先述のように筆者はこの4月、蓮如上人御影の吉崎別院御到着に初めて出会い、「お腰延ばしの儀」と初夜勤行にも参詣させていただいた。内陣御代前に御影が奉掛され、満堂の参詣者が親しく贍仰する姿を拝見して感じたことは、1人1人が「蓮如さん」と改めて出会われているということであった。
これは何も本堂内に限ったことではない。
通り過ぎ行く御影に合掌する沿道の人々や、お立ち寄り所でお迎えする人々。そして何よりも、随行の教導と道中責任者たる宰領・供奉人、さらに自主参加で歩く人々の姿は、まさに生身の「蓮如さん」と対話をしているかのようであり、筆者自身もその思いであった。その意味では、御影道中を伝えてきたものにとっては、その時その時が大切なのであり、始まりがいつなのかは二の次のことであったと言えよう。
しかし、伝統的な仏事が伝わりにくくなっている現実もある。次代へ受け渡すには、願いとするところを明確にしておかなければならない。
その為にも、この稀有な仏事に関する記録を、網羅的に調査整理する必要があると痛感した次第である。
【脚注】
①金龍静著『蓮如』(1997年、吉川弘文館)127・8頁、網田義雄著・真宗大谷派福井教区教学研究所補訂『補訂 越前真宗誌』(2011年、法蔵館)255~8頁参照。
②阿部法夫著『蓮如信仰の研究―越前を中心として―』(2003年、清文堂出版)32~4頁参照。なお、古老の語りとして承応2(1653)年説もあるという。
③北西弘編著『吉崎御坊願慶寺文書』(2005年、清文堂出版)。
④註③書、154・5頁。
⑤朝倉喜祐前掲書、第4章・第5章参照。なお、享保20(1735)年9月14日付の東本願寺坊官沙汰書には、「然者吉崎御坊之儀、去秋冬両度 御下知之節茂各承知之通、願慶寺 寺庵、御坊と御改」(註③書162・3頁)とある。
⑥この時下付された蓮如上人御影が、現在御影道中で依用されている御影である。
⑦この寛文13(1673)年から延宝5(1677)年までの、「吉崎山上一件」と称される争いについては、「延宝五巳年 山上一件公訴江戸御坊日記之写」並びに「粟津家藏記写之 延宝年中山上一件記」に詳しい。どちらも註③書に翻刻所収。なお、御影道中の創始を延宝年間に求める説は、この吉崎山上の争論にその起源を見ようとするものであろう。
⑧朝倉喜祐前掲書、250頁。言うまでもなく、旧暦3月25日が蓮如上人の命日である。
⑨また、これを遡る安永2(1773)年9月に願慶寺より福井藩に出された由緒書の下書きが、『福井県史 資料編四』(1984年、福井県)に「願慶寺文書」の1つとして翻刻されている(520頁)。これも御影道中に関する部分を引用しておく。
夫ゟ六世祐意ニ本山ゟ願慶寺と寺号被下罷有候所、七世祐恵之代ニ罷成本山ゟ被仰越候ハ、何卒当吉崎ニ掛所建立被成度旨ニ御座候ヘ共、天和二年ゟ新地御堂相立候儀公儀ゟ御停止ニ付、右願慶寺御堂を掛所御堂ニ建立有之候、尤其節本山ゟ公儀江御達有之候所、御許容有之候、夫ゟ 毎年三月蓮如上人御影京都ゟ御指下、御法会有之候御事、
「掛所」とは「御坊」のことであり、ここからも享保6年に願慶寺が御坊に取り立てられて、当初の蓮如上人御影が上納され、その写しが下付されたのがきっかけとなり、吉崎御坊御忌法要への御影御下向が始まったと窺うことができる。
⑩朝倉喜祐前掲書、第五章参照。
真宗大谷派 名古屋別院(東別院)・名古屋教区・教化センター公式ホームページ
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