― 京都教区の大谷大学卒業生が中心となって結成された「京都大谷クラブ」では、1956(昭和31)年から月1回、『すばる』という機関誌を発行し、2018(平成30)年9月号で第748号を数えます。京都市内外のご門徒にも届けられ、月忌参りなどで仏法を語り合うきっかけや、話題となるコラムを掲載。その『すばる』での連載のひとつである「真宗人物伝」を、京都大谷クラブのご協力のもと、読みものとして紹介していきます。近世から近代にかけて真宗の教えに生きた様々な僧侶や門徒などを紹介する「人物伝」を、ぜひご覧ください!

真宗人物伝

〈8〉工藤儀七
(『すばる』729号、2017年2月号)

 

「工藤儀七肖像画(聞德寺庫裏再建ニ付木村吉兵衛説諭の図)」(工藤家所蔵)

 

1、両堂再建を支えた妙好人

東本願寺は、江戸時代に4度の焼失に見舞われましたが、その度に再建されてきました。度重なる再建を機縁として教化活動が推し進められ、幾多の困難を信心の回復によって乗り越えてきました。このような再建事業を支えてきたのは、真宗のお念仏の信仰に生きた篤信者である数多くの「妙好人」でした。

 

天明8年(1788)1月30日、京都大火により東本願寺は類焼しました。最初の焼失にあたります。再建に際しては、用材を全国から京都の東本願寺へ輸送する必要がありました。

 

出羽国最上地域(山形県)の僧侶・門徒からは、御影堂の一番虹梁や柱に用いる欅の巨木が献上されることになります。その際、最上門徒を率いて尽力したのが、聞德寺(山形教区第四組、山形県西村山郡河北町)の門徒である工藤儀七(法名…道観、1751~?)でした。その巨木を運搬した模様を、儀七は絵師へ依頼して、6曲1双の屏風(「寛政度用材運搬図屏風」〈工藤家蔵〉)に描かせています。

 

巨木は、出羽国最上新庄真室(山形県最上郡真室川町)の山中から、塩根川・鮭川・最上川を下して酒田湾に運ばれ、船に積み込まれました。ここまでの様子が、屏風の上半分へ詳細に描かれています。そこから船にて大坂まで運ばれて、伏見を経由して京都に到着します。

 

屏風の下半分には、京都七条に到着した巨大な用材を本山境内へ運び込む様子が迫力をもって鮮やかに描かれています。僧侶や門徒の宿泊所として地域別に設けられた御小屋(のちの詰所)の名称を記した提灯が数多く描かれていることからも、全国の人々によって担われた一大事業であったことがうかがわれます。

 

なお、堂僧(御堂衆)である懸鼓庵が絵師を雇って儀七のもとで本屏風を写させて作成した屏風が、真宗大谷派(東本願寺)に現存しています。

このような東本願寺の再建に関わる様子を描いた絵画史料により、時代を超えて現代の私たちは、当時の再建事業へ携わった人々の様子を知り、さらに思いを感じることができるのではないでしょうか。

 
2、地元での工藤儀七

このように、本山である東本願寺の再建に最上門徒の中心となって心血を注いだ工藤儀七でしたが、同時期に、手次寺の再建にも取り組んでいました。

 

安永6年(1777)正月、聞德寺十世住職は御堂再建を発願するものの困難を極め、天明7年(1787)正月、門徒惣代の儀七が改めて住職から懇志のとりまとめを依頼されて引き受けることになりました。そして寛政6年(1794)6月22日、ようやく上棟式が執り行われたのでした。

 

御堂成就後、聞德寺坊守から庫裏の再建も依頼されますが、御堂再建から間もないので、他の門徒の協力を得ることができませんでした。そのため儀七は、田地を質に入れて金銭を工面しようとしました。それに対して、61歳の木村吉兵衛なる人物から、子孫の行く末を考えて生活が不安定にならないように、と43歳の儀七は諭されました。このような説諭をありがたいと思った儀七は自ら筆をとって、「聞德寺庫裏再建ニ付木村吉兵衛説諭の図」(工藤家所蔵)を描き、その経緯についても同図に記述しています。

 

儀七は篤信家であり、学寮講者である香月院深励師(1749~1817,「真宗人物伝〈17〉香月院深励師」)や香樹院徳龍師(1772~1858,「真宗人物伝<2>香樹院徳龍師」)などによる法話の筆録も工藤家に伝来しています。日々の聞法や学びが、本山や手次寺の再建事業に生涯を捧げた「妙好人」工藤儀七を生み出したのでした。

 
■参考文献

工藤益太郎『工藤儀七をたずねて』(寒河江印刷、2011年)

 

■執筆者

松直金美(まつかね なおみ)