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― 京都教区の大谷大学卒業生が中心となって結成された「京都大谷クラブ」では、1956(昭和31)年から月1回、『すばる』という機関誌が発行されています。京都市内外のご門徒にも届けられ、月忌参りなどで仏法を語り合うきっかけや、話題となるコラムを掲載。その『すばる』での連載のひとつである「真宗人物伝」を、京都大谷クラブのご協力のもと、読みものとして紹介していきます。近世から近代にかけて真宗の教えに生きた様々な僧侶や門徒などを紹介する「人物伝」を、ぜひご覧ください!
真宗人物伝
〈9〉坂井若利
(『すばる』730号、2017年3月号)
「坂井若利肖像画」(新潟木揚場教会所蔵)
1、両堂再建と新潟木揚場説教場
新潟市に「木揚場教会」という施設があります。明治度の東本願寺両堂再建を機縁に開かれた「新潟木揚場説教場」が前身です。
現在の東本願寺両堂(御影堂・阿弥陀堂)は、明治28年(1895)に再建された建物です。元治元年(1864)7月におこった禁門の変の兵火で焼失してしまった後、明治前期に進められた再建にあたって、用材や物資などが必要となり、全国から京都の東本願寺へ輸送されることになりました。この時期、鉄道も開通し始めていましたが、その区間は限定的であり、いまだ海運が主流の時代でした。そのため日本海側を中心とする各地域の湊に「木揚場」と称する施設を置き、用材集積に関するさまざまな事務を行いました。全国32ヶ所の湊に設けられた木揚場のうち、新潟木揚場は東本願寺直轄の「説教場」となっていきました。
御影堂の中で一番大きな梁は、「御影堂柵側一番虹梁」と呼ばれる、長さ4丈7尺(約14.2m)にも及ぶ巨を大なケヤキ材です。この木材は、新潟の木揚場から明治15年(1882)に寄進されたものです。阿賀野川の川底に沈んでいた巨木を引き揚げ、本山へ寄進されるに至りました。
2、新潟木揚場説教場の設立者
明治14年(1881)8月4~6日、新潟港木揚場の開場式が執り行われました。創立者で敷地建物寄付者でもあり、その後の運営にも尽力したのが、廻船問屋である坂井若利(本名…利助、1831~98)でした。若狭国出自の利助であることから「若利」と称しました。
父・久栄門は、東本願寺の二回目の焼失後である文政度両堂再建に際し、手伝い人足や物資、また上納米などを新潟港から京都まで運搬する業務に携わっていました。そのような父を継承し、新潟を拠点に廻船問屋を営んでいた若利は、東本願寺を再建するための用材を集積して運搬するための拠点である新潟木揚場の創建・運営に尽力しました。
設立当初の新潟木揚場説教場は、須弥壇を設置した内陣・余間や外陣、さらに20室近くの部屋などを備えた施設でした。外陣は84畳もの広さがあり、数多くの参詣者を収容できる聞法施設でした。
木揚場教会の本尊は、数万人の同行から集めた懇志の銭貨を鋳直して、明治17年(1884)6月8日午後2時に出来上がった銅仏の阿弥陀如来立像です。また親鸞聖人御影と達如上人御影は明治18年(1885)2月に授与されました。そして、厳如上人御影が明治24年(1891)6月に下付されたようですが、残念ながら現存していません。さらに明治35年(1902)には坂井若利夫妻による寄進で、親鸞聖人御絵伝4幅が新調されています。このように、時代を追って徐々に寺院に類する荘厳が整えられました。
開場当初の建物は明治41年(1908)の新潟大火によって全焼してしまいます。その後、仮堂が建設されますが、大正14~15年(1925~26)に現存する本格的な本堂が造られました。開場当初は純和風の木造建築でしたが、大正に再建された現存の建物は、背後が和風、表側が洋風建築の要素を取り入れた、和洋折衷の独特な外観の建物です。若い世代の人びとにも受け入れてもらえるよう、このような建築様式にしたとも伝えられています。
現在は「木揚場教会」として、定期的に法要や法話が勤まり、さらにさまざまな文化的活動を行うなど、人びとが集う、地域に開かれた場となっています。伝統を引き継ぎ、近代という時代の中で、ご門徒が主体となって、新たな形の聞法の場として生み出されたのが、木揚場に設けられた説教場でした。
■参考文献
『真宗大谷派木揚場教会』(木揚場教会世話方会、2003年)
「新潟木揚場教会と一番虹梁」(『真宗本廟(東本願寺)造営史―本願を受け継ぐ人びと―』真宗大谷派宗務所出版部〈東本願寺出版部〉、2011年)
■参考ホームページ