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― 京都教区の大谷大学卒業生が中心となって結成された「京都大谷クラブ」では、1956(昭和31)年から月1回、『すばる』という機関誌が発行されています。京都市内外のご門徒にも届けられ、月忌参りなどで仏法を語り合うきっかけや、話題となるコラムを掲載。その『すばる』での連載のひとつである「真宗人物伝」を、京都大谷クラブのご協力のもと、読みものとして紹介していきます。近世から近代にかけて真宗の教えに生きた様々な僧侶や門徒などを紹介する「人物伝」を、ぜひご覧ください!
真宗人物伝
〈11〉海德院公厳師
(『すばる』732号、2017年5月号)
海徳院公巌肖像画
(淨福寺所蔵, 佐々木求巳『近代之儒僧 公巌師の生涯と教学』より転載)
1、公巌師による諸分野にわたる学問
海徳院公巌師(1757~1821)は、宝暦8年(1758)に越後国の西性寺(高田教区第3組、新潟県糸魚川市)で生まれ、天明6年(1786)から出羽国酒田にある淨福寺(山形教区第9組、山形県酒田市)の住職となった人物です。享和2年(1802)に異義を唱えた疑いにより安心調理を受けた、「羽州公巌異安心事件」の当事者として知られています。
まず、のちに異安心と裁定された公巌師の修学過程をたどってみたいと思います。淨福寺の門徒に豪商本間家がありました。「本間様には及びもないが、せめて成りたや殿様に」とまで民謡に歌われた富豪です。当家全盛期の当主であった本間光丘は篤信家であり、淨福寺に対しても多額の寄進をしたようです。その光丘の援助を受け、公巌師は22歳で初めて上洛しました。また京都のみならず、生涯において公巌師は諸国へ遊学していましたが、それを可能にしたのは本間家の財力による支えであったと思われます。
度重なる上洛に際しては、東本願寺教団の学場である高倉学寮のみならず、色々な場に出向き、他宗の学問や仏教以外の学問についても学びました。例えば、天台宗の僧である顕道敬光(1740~95)や、真言宗僧で戒律復興に尽力した慈雲飲光(1718~1804)のもとで、様々な分野の仏教を学んでいます。また醍醐三宝院の高演(1765~1848)につき密教を学び、さらには儒者の皆川淇園(1734~1807)の門下で儒学の研究も積極的に行いました。そして仏教天文説をとなえた天台宗僧の普門円通(1754~1834)から天文学を学び、天球儀と地球儀を所持していました。つまり公巌師は、海外や宇宙も見据えた世界観を有していたのです。このような教団の枠内におさまらない幅広い修学の営みが、時には教団から異端視される危険性をはらんでいました。
2、異安心調理とその後
公巌師は、南無阿弥陀仏と念仏申すことについて、本山が正統とする説と異なる見解を述べたため、本山から異安心ではないかと嫌疑をかけられました。
異安心との疑いがかかっても、すぐに断定された訳ではなく、まず「対話」「御糺」といった問答の機会が設けられました。そして容疑者が自身の誤りを認めたとき、「御請書」「廻心状」を提出し、「御教誡」を受けました。羽州公巌異安心事件は、このような異安心調理の手順を形式化していく契機となった事件と考えられ、そういうことからも、画期的な事件でした。
ただし一旦、異安心とされた場合にも、正統へ回復する余地を有しており、異安心から熟慮の上で正統教学に廻心した僧侶には、さらなる他の異安心を取り締まっていくことが期待されました。また異安心に対して罰として科せられたのは、京都の学寮における受講の義務づけであり、処罰としては緩い印象を受けます。当該期の東本願寺教団における異安心の取り締まりは、まだそれほど徹底した厳しいものでなかったことがうかがえます。
3、異安心調理を通して教学を学ぶ
調理の過程は写本にまとめられ、各地にある寺院のほか、真宗道場であった越中国の名苗家(富山県氷見市、「真宗人物伝〈23〉名苗新十郎」)や、出羽国最上地域の工藤家(山形県西村山郡河北町、「真宗人物伝〈8〉工藤儀七」)という門徒宅にも所蔵されています。所蔵先の人々は、その調理の過程について写本を通して知ることで、かえって正統教学とは何かを考える機縁としていました。
■参考文献
佐々木求巳『近代之儒僧 公巌師の生涯と教学』(立命館出版部、1936年)
松金直美「近世真宗東派における仏教知の展開―正統教学確立と異安心事件をめぐって―」(『真宗文化』第22号、京都光華女子大学真宗文化研究所、2013年)
松金直美「僧侶の教養形成―学問と蔵書の継承―」(『書物・メディアと社会』シリーズ日本人と宗教―近世から近代へ第5巻、春秋社、2015年)