-京都教区の大谷大学卒業生が中心となって結成された「京都大谷クラブ」では、1956(昭和31)年から月1回、『すばる』という機関誌が発行されています。京都市内外のご門徒にも届けられ、月忌参りなどで仏法を語り合うきっかけや、話題となるコラムを掲載。その『すばる』での連載のひとつである「真宗人物伝」を、京都大谷クラブのご協力のもと、読みものとして紹介していきます。近世から近代にかけて真宗の教えに生きた様々な僧侶や門徒などを紹介する「人物伝」を、ぜひご覧ください!

真宗人物伝

〈15〉粟津義圭
(『すばる』736号、2017年9月号)

粟津義圭師肖像画(響忍寺所蔵)

粟津義圭肖像画(響忍寺所蔵)

1、当代随一の唱導僧

粟津義圭(あわづぎけい)師(諦住、1732~99)は、近世の真宗東派における随一の唱導僧(しょうどうそう)として知られる人物です。近江国膳所(ぜぜ)響忍寺(こうにんじ)(京都教区近江第1組、滋賀県大津市)に、5代目住職となった舜諦の弟として生まれました。

 

高倉学寮で宗乗(真宗学)を学んだ後、唱導に力を尽くして名声を極めるまでになりました。その生涯については詳らかでないことも多いのですが、響忍寺の過去帳や、大正元年(1912)に没した縁者である唯伝寺(近江第1組、大津市)の老院が語っていたことをもとに、次の様な逸話が伝えられています。

 

若くして、同国野洲郡三宅村の蓮生寺(近江第4組、守山市)から妻を迎えますが、その妻は間もなく病死しました。兄の舜諦とは仲睦まじく、机を並べて著述や読書に(ふけ)っていたといいます。また勉学に疲れると、酒を飲んだり、三味線を弾いたりして、憂さ晴らししながらも、兄弟で切磋琢磨していたようです。

 

2、著述書の人気

義圭師は、宗門における教育機関の中核たる高倉学寮に講者として所属することはなく、在野の唱導僧として、人気を博したのでした。その唱導・説教は、著述書として刊行され、各地の僧侶らに読まれることとなりました。それらの書物は説教をする際の台本として活用できるものでした。一座分の法談を丸覚えにして法座に立つことのできる説教本だったこともあり、多くの僧侶らが買い求めました。

 

数多くの著述書のなかでも、主著と言えるのが『御伝鈔演義』です。同書は、親鸞聖人の伝記である「御伝鈔」の説教本です。安永3年(1774)に初編3巻が刊行されてから、安永8年(1779)までに全4編13巻が出版されました。さらに同書は、明治27年(1984)に『御伝鈔講話』と題して、改めて出版されています。

 

義圭師述の書物は、各地の寺院や道場に残されています。例えば、應通寺(岡崎教区第4組、愛知県豊橋市、「真宗人物伝〈4〉大河内了智」)には、10部(刊本9部、写本1部)の義圭師著述書が伝わっています。また、近世には道場であった越中国の()(なえ)家(富山県氷見市、「真宗人物伝〈23〉名苗新十郎」)には、義圭師述の①『極楽道中独案内(ごくらくどうちゅうひとりあんない)』(天明8年〈1788〉刊)と②『正信偈勧則』の写本があります。①は親戚でもある蓮沢寺(高岡教区第7組、富山県氷見市)から安政3年(1846)にお土産として貰ったもので、②は寛政元年(1789)に刊行されていたものを、100年後の明治22年(1889)7月に当家9代当主の新十郎が、知人から借用して、書写した写本です。このように、義圭師の著述書は、近代になってからも読み継がれました。

 

3、近代における著述書刊行

明治26年(1893)~同32年(1899)にかけて、京都の興教書院から、説教学全書というシリーズが刊行されました。シリーズ10編のうち8編が義圭師の著述書であることからも、いまだ人気の衰えていないことが分かります。当該期に刊行した理由を、最終編である明治32年刊『説教良弁集』の「はしがき」で、次の様に記しています。

 

「宗門の基礎は勧学と布教であり、布教に尽くした義圭の著書を、印刷業の進歩した今、出版して、その法音に触れるべきである。昔の布教に関する書は時勢に反するという人もいるが、自己の信仰を確固たるものとした上で、その信仰の表白には古書を活用することが、古きを温ねて新しきを知る道理であり、そのため布教家の泰斗である義圭の著書を刊行する。」

 

譬喩・因縁譚も交え、情感に訴えて語られた義圭師の唱導は、近代を迎え、批判の対象ともなったようですが、布教の方途として、依然、人気と信頼は揺るぎないものだったようです。

 

■参考文献

松金直美「僧侶の教養形成―学問と蔵書の継承―」(『書物・メディアと社会』シリーズ日本人と宗教―近世から近代へ第5巻、春秋社、2015年)

 

■執筆者

松金直美(まつかね なおみ)