─教団を棄てた柴田良平さんの中に生き続ける親鸞─
< 真宗大谷派ハンセン病問題に関する懇談会委員 酒井義一 >
お見舞いにうかがった時、柴田良平さんはベッドの上で起き上がり、笑みを浮かべた。そして、一言ひとことをかみしめるようにして、こう語られた。
「親鸞は私の人生の先導者。
私はまだ浄土へいくわけにはいかない」
まるで遺言のような力強さがあった。この言葉を遺して、柴田さんはお浄土へ還っていかれた。2013(平成25)年1月24日、寿算84歳だった。
ハンセン病を生きた柴田さんは、教団外に身を置きながら、親鸞の教えに生きた方だった。親鸞が自らの人生の先導者だと言い切る柴田さんの歩んだ道を、ここに確かめていきたい。
柴田良平さんは1928(昭和3)年5月、19代も続く関西の真宗門徒の家に生まれた。父親は門徒総代も務めていた。子どもの頃はお寺が遊び場だったという。お寺の住職から、「親鸞さまは、踏みつけられ、虐げられてきた人々とともに生きられた方だ」ということを、子どもの頃から聞いて育った。
近くには被差別部落があり、住職は人々と深く交流しながら生きていた。そのすがたに、部落差別を全く感じさせない、生きてはたらく親鸞のすがたを見た思いがした、と柴田さんは語る。そこに柴田さんにとっての、親鸞との原初の出会いがある。
やがて柴田さんはハンセン病を発病し、1947(昭和22)年、すがたを消すようにしてハンセン病療養所・長島愛生園へ入園した。
ある日突然すがたを消した柴田さんを不審に思った住職は、柴田さんの父親を問い詰めて病気を知ることとなった。これは大変だということで、住職は本山に出向き、大谷派光明会の資料をつぶさに調べ、その後、住職は父親と一緒に愛生園を訪れた。柴田さんの尊敬する住職が面会に訪問、その住職の目には涙が光っていたという。
その後、姉と妹が面会に来た時、柴田さんは思いもかけないことを知る。姉は2人の子どもを連れて離縁され、妹は2回の縁談が破談になったというのだ。その理由は、自らのハンセン病にあるとのこと。誰にも言わずに入園したのになぜ、という疑問が湧く。
原因は、住職が柴田さんの病気のことをふるさとで明かしたからだという。決して悪く言ったのではない。「祖国浄化」のもと、家族を守るため長島で頑張っているという形で、秘密を暴露してしまったのだ。
「あの住職さんが」と思い、柴田さんは住職を怨んだ。しかし、住職は変わらぬ誠実な人。その住職がなぜ、と問うてみた時、大谷派光明会の存在があったからだと思い至る。
大谷派光明会とは、終生隔離というハンセン病への国策に、教団を挙げて協力した大谷派の組織だ。その存在を知る人は、今の教団には少ない。しかし、大谷派光明会によって人間であることを奪われた方々は、そのことを決して忘れてはいない。
親鸞は、踏みつけられ苦しむ人々と共に生きられた。しかし、大谷派光明会のしたことは、それとはまったく逆のことだった。柴田さんはきっぱりと言う。「私は真宗大谷派を棄てました。はっきりと棄てました」。
「大谷派を棄てた」。教団に身を置く私たちは、この言葉の持つ重さを、しっかりと受け止めなければならない。
その後、柴田さんは社会復帰を果たすが、職場でのハンセン病に対する差別的な処遇に対しても、きちんと自分を表現し、おかしいことをおかしいという姿勢を貫いた。その根底にあったのは、住職から学んだ親鸞の姿勢だったという。
「大谷派は棄てたが、親鸞を崇める気持ちは変わっていない。人生とは問い続けること。疑いを持てば、どこまでも問い続ける」。これが子どもの頃から、親鸞を慕う住職から学んだ、生きる姿勢だと述懐する。大谷派を棄てたというひとりの人の中に、親鸞は変わらずに生き続けていたのだ。
真宗大谷派は、その後、らい予防法廃止にあわせて謝罪声明を表明した。1996(平成8)年のことである。柴田さんは、その声明にある宗祖の「教え=ことば」にたち帰るという言葉にふれ、大谷派の慚愧を見た思いがしたという。
そして、教団の動きに再び関心をもたれるようになった。関係が途絶えていた大谷派が主催する「ハンセン病問題全国交流集会」には、第3回から毎回欠かさずに参加した。
柴田さんの遺された言葉をかみしめたい。
かわいそうな人に何かをしてあげるという運動を超えていく運動を起こしてほしい。それは、共に生きるという運動だと思う。
目の前の人をかわいそうな人として見ることには大きな落とし穴がある。相手が救われるべき人に見えてしまうと、私は救う側に立ってしまうからだ。そうして人は、「同朋」という関係を見失ってしまう。このことを先の言葉は、教えてくれている。
このことはハンセン病問題に限ったことではない。東日本大震災への支援活動でも同じことだ。相手を、共に生きるべき他者として見い出すこと、それが親鸞に学ぼうとする私たちの、共通の課題なのではないだろうか。
人間を見失ってしまう隔離政策に加担し、その結果として親鸞の精神を見失ってしまった教団。その教団に対し、悲しみと怒りを込めて「棄てた」と語るひとりの人がいた。そして、教団を去った人の中に生き続ける親鸞がいた。
この時の親鸞とは、いったいどのような親鸞だったのだろう。ハンセン病療養所・多磨全生園に伝わる讃歌『親鸞さまはなつかしい』の中に生きる、親鸞を憶う。
闇にさまよう われらをば
み胸にしっかと いだきしめ
光にかえれと しめします
親鸞さまは なつかしい
嵐 いばらじ 踏みこえて
ただ真実の 白道を
歩みつづけし わが父の
親鸞さまは なつかしい
そこに生きる親鸞とは、隔離政策を運命と説いた当時の大谷派教団のすがたとは全くかけ離れた親鸞である。
そこに生きる親鸞とは、人々とともに「光にかえれ」という呼びかけを聞く親鸞であり、「白道を歩みつづけ」る親鸞である。
そのような親鸞を「なつかしい」と表現する人々がいる。そのような人々の中に、親鸞は、教団を超えて、今もなお生き続けていることを、強く思う。
真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2013年5月号より