多田芳輔・腰の据わった念仏者
< 玉光 順正 >

 私(たち)が長島愛生園真宗同朋会を定期的に訪ね、そして短時間の法話というより問題提起を始めたのは一九八五年からであった。そして、そのきっかけを作ってくださったのは福地幸造(ふくちこうぞう)さんである。福地さんは解放教育運動の指導者として全国に名の知られた方であった。その福地さんが、自分の最後の仕事として全国各地のハンセン病療養所を訪ねられ、その上でさまざまな情報を私たちに届けてくださっていたのである。福地さんから働きかけを受けての私たちと療養所とのかかわりであるので、当然のごとく自分たちの差別意識を問い、同時に強制隔離など、国策としての日本国家のハンセン病「対策」を問うかかわりであった。それゆえに、おそらくそれまでの大谷派教団が行ってきた真宗同朋会とのかかわりとは異なっていたに違いない。
 私たちが訪問し始める以前から、真宗同朋会の会長をしておられたのが多田芳輔(ただよしすけ)さんであった。その多田さんが、昨年十二月三十一日に亡くなられた。
 多田さんは、尊敬する人として、長島愛生園の開園を入所者の立場で担った、いわゆる開拓患者の栗下信策(くりしたしんさく)さんと長島愛生園初代園長の光田健輔(みつだけんすけ)さんを挙げられていた。一九五一年七月に入園し、間もなく真宗同朋会の創設者でありリーダーでもあった栗下さんと出会い、栗下夫妻の付き添いをし、手助けをしながら栗下さんに「人間として生まれさせていただいた真の目的とは何かを教えていただいた」と言われる。その栗下さんは「両手丸ぼうず、両義足の信策を昭和六年三月の長島開拓の一員に加えたほど、光田は信策をかわいがった」(『倶会一処』)と言われるように、光田園長の秘蔵っ子であった。
 私たちがかかわりはじめた頃、多田会長の周辺には、その栗下さん、光田さんとのそれまでの関係はもちろん、それ以外にも下位(しもい)あさをさん、藤井(ぜん)伊奈教勝(いなきょうしょう))さん、今もいろいろと表現されている田端明(たばたあきら)さん等々個性あふれる念仏者たちがおられたのである。
 私が初めて長島愛生園真宗同朋会で話した時、そのテーマはらい予防法、国家による隔離政策、そして天皇制云々であった。二回目の時にある人が「“らい”の話はもういいんです。法話をしてください」と思わず言われるような状況の中で、会員の方々に「それでも聞き続けてください」と言ってくださったのが多田さんであった。
 はじめの頃、らい予防法の廃止やハンセン病違憲国家賠償請求訴訟に関しても、私たちの思いと多田さんを含めた真宗同朋会の多くの会員の思いは一致していたとは言い難い気もする。にもかかわらず、私たちを受け入れてくださりそして育ててくださったのは、個性あふれる念仏者たち、なかでもそれをまとめてくださった多田さんの腰の据え方は違っていたと思われる。
 多田芳輔さん、ありがとうございました。
 

不屈の人 曽我野一美さんを偲んで
< 藤井 恭子 >

 昨年十一月二十三日、ハンセン病違憲国家賠償請求訴訟(以下国賠)で原告団長を務めた曽我野一美(そがのかずみ)氏が急逝した。八十五歳だった。
 曽我野氏は、一九二七年、高知県四万十市の農家に一男四女の長男として生まれた。予科練を志願し航空隊に配属されるもハンセン病を発病し、大島青松園へ入所したのは一九四七年、二十歳の時であった。折しも民主主義の風が療養所にも吹き始めた時代である。青松園でも自治会と青年会が連帯しながら待遇改善やプロミン獲得運動を興し、熱気をおびていた。曽我野氏もすぐに青年団に入団し、やがて団長として手書きの機関誌「壁新聞」の発行に没頭していく。闘いの始まりだった。以来、持ち前の行動力と実行力で青松園自治会長を十八期、全国患者協議会長を十年、そして国賠原告団長とハンセン病問題の解決にむけて闘い続けた。妻の千沙子さんは言う。「とにかく人間が大好きな人でした。やんちゃでしたが繊細だった。なにより人間が一本の線で左右に選別され、差別されることの不条理を許さなかった」と。
 大島では畏敬の念をこめて「曽我野天皇」と呼ばれることもあった曽我野氏だが、意外なエピソードがある。入所当初、宗教に入信することに抵抗し、自ら発起人となって無宗教の会「思索会」を立ち上げた。ところがキリスト教信者の千沙子さんのお供であちこちへ行くうちに心が揺らぐが、「思索会」の仲間に言い出せない。気の毒なほど悶々としていたそうだ。しかし、洗礼を受けてからは周囲が驚くほど敬虔な信者となり、たとえ他所にいても最寄りの教会での日曜礼拝は欠かさなかったという。その様子に口の悪い友人は「大島には曽我野一美が二人おるそうな」と冷やかしたとか。また後遺症をとても気にしている自分を「差別しないでと訴えていながら自分で自分を差別しているよなぁ」と吐露することもあったそうだ。
 こんな話を聞くにつれ、生前にもっと話を聞いておきたかったと後悔しきりである。瀬戸内三園合同花見や懇親会など大谷派の行事にも気軽に顔を出してくれた曽我野氏は、謝罪声明を出した大谷派に期待を寄せていた。
 四国教区で講演していただいたとき「どうか先生方、この世からハンセン病差別と部落差別が無くなるようご尽力ください」と締めくくったのを覚えている。人生のすべてをかけて差別と闘いぬいた曽我野氏から、大谷派へ託されたバトンだったのだと思う。

 

《ことば》
切れば血が出るような念仏を称えてください

< 能登教区 松下春樹 >

 私は、一九九九年十二月に能登教区同和要員研修で多磨全生園を初めて訪問しました。その時に入所者の茂田光枝さんからこの言葉をお聞きしました。私には、「口先だけでなく、念仏を称えながら血のかよった実践行動をしてほしい」という言葉として響きました。
 翌年五月、北陸連区差別問題研修会が能登教区で開かれ、そこで多磨全生園の平沢保治さんから「人は動けば過ちを犯すこともある。でもそれを恐れずに(問題解決に向かって)動いてほしい」と励まされました。
 私は研修会などで、ハンセン病について誤った認識が世間に広まっていることを知りました。そして私が、ハンセン病を患った人とその家族を疎外している側の一人であることに気づかされました。
 寺で法話を語る時、できるだけそのことを話すようにしています。ハンセン病療養所で暮らす方々が堂々と里帰りできる環境が、一日も早く整うことを願いながら。

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2013年4月号より