「実力行使決議」への呼応
「ハンセン病療養所入所者の人間としての尊厳回復を求める要望書」を提出
< 解放運動推進本部本部委員 訓覇 浩 >
はじめに

「かつて国は、ハンセン病患者の強制隔離絶滅政策を推進して多くの犠牲者を出し、断罪された。しかし、その責めを忘れたかの如く再び人間否定の過ちをハンセン病対策において強行している」
「政府は「閣議決定」の名において、人権や尊厳を(ないがし)ろにした施策を強行している」
「われわれは、いまや国の責任をも顧みず、反動的政策を強行する政府の姿勢に対し、断固実力行使をもって抗議をし、直ちに抜本的改善措置を講ずるよう全療協の総意により強く要求するものである」

 これらの悲壮感と怒りに満ちた言葉は、昨年七月になされた、ハンセン病療養所入所者の全国組織である「全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)」による「実力行使決議」(本誌二〇一二年十一月号掲載)に綴られたものです。
 本誌二月号で既報のとおり、真宗大谷派は、昨年十二月二十七日、宗務総長名による「ハンセン病療養所入所者の人間としての尊厳回復を求める要望書」を、安倍晋三内閣総理大臣ならびに田村憲久厚生労働大臣宛てに、新内閣発足と同時に提出いたしました。それは、この実力行使決議に対する、大谷派としての呼応と位置付けてよいと思います。
 この決議は、「医療機関である療養所内においても、政府のすすめる行政改革・合理化政策が強行されていることに対し、強く抗議し改善を求める実力行使を断行すること」を表明するものですが、私たちは、平均年齢八十二歳を超える人たちが、まさにいのちがけの闘いを、今なさなければならないことの意味を、正面から受け止めていかなければなりません。なぜなら、この全療協の決議は、形としては国に対してなされているものですが、そのような国の在り方を許す社会、そして私たち一人ひとりに対しての訴えであると(うなず)くべきものであるからです。

 

実力行使を決議させる療養所の現状

 昨年十一月に行われた「ハンセン病療養所の実態を告発する市民集会」では、「夜中に排尿のためコールしても職員が来てくれない」「失禁しそうになって自力でトイレに行こうとして転倒、骨折した」「どんなに暑い日も、どんなに寒い日も入浴は週三日と決められている。認知症と診断された入所者は、土曜、日曜日になると人手不足で昼間から睡眠薬を投与されている」などの医療施設とは言い難い現状が報告されました。
 さきの「決議」の中では、「国家公務員の定員削減、欠員不補充、新規雇用抑制等の施策により、医療機関の基本的な役割である医療、看護・介護、給食等々のサービスが著しく損なわれており、その影響は療養生活上の不安を超越し、われわれの生存権を脅かしていることを強く訴える」という言葉で強い怒りがあらわされています。一見穏やかにさえ見える療養所の生活は、いのちの灯がいつかき消されてもおかしくない中にあるということなのです。そしてそれは、そこではたらく一人ひとりの能力や入所者の自己管理などで補完できるレベルを超えているものであり、ハンセン病療養所施策そのものが持つ問題であると指摘されています。

 

入所者の怒り

 さらに、入所者の方々がここまで強い言葉で怒りを表明されるのは、いのちに関わる問題であるということに加え、自らの過ちにより引き起こした隔離政策の被害に対して、真剣に向き合おうとしない国の態度が大きな理由であると思います。国は自分たちに何度同じ苦しみを与えれば気が済むのかという言いようのない怒りが、ハンスト決行という決議となったのではないでしょうか。
 かつて、国会で隔離政策の存続が大きな議論となったとき、全国の入所者が(こぞ)ってハンストなどを行い、予防法の改廃を訴えました。この時も国はその願いをことごとく踏みにじり、さらに隔離の強制力の強い法律を作りました。そしてその法律の違憲性が明らかになり、入所者が安心して生活できる療養所の環境を国は約束しました。その約束を今、国は反故にしようとしているのです。入所者の皆さまが強い怒りをもたれるのも当然のことと言えます。
 しかし、その怒りの声は国に届かず、社会にも広がりをもちません。隔離政策の被害の苦しみが現在進行形のものであることが、国や社会、市民一人ひとりに伝わらない。話し合いをしても心の底からの共感や反応があるとは感じられない。当事者にとってそのことほど苦しく悲しいことはないのではないでしょうか。私たちは、ふたたび、みたび、大きな過ちを侵そうとしているのです。

 

実力行使決議に応える

かつて、全療協の前身である「全国ハンセン病療養所患者協議会(全患協)」は、「(らい)予防法廃止闘争」などを振り返り、「人間が、人間らしくある、ということは、人間として扱われていない者たちの問題であるだけでなく、人間として扱おうとしない者たちや、その社会の人間性にかかわる問題であった。これまでも、「可哀想だ」と同情する人たちはたくさんいたが、そのためにハンセン氏病患者の地位が非常によくなった、という例はなく、この「人間復帰」のたたかいにとって本当に必要なものは、より人間的な社会をめざす立場からの連帯であり、それ以外のものではなかった」(『全患協運動史』)と語っています。
 私たち真宗大谷派は、今回の決議を目の当たりにし、あらためて慰安教化活動をはじめ教団の隔離政策協力の歴史を踏まえる中で、その訴えに応える形として国に対して要望書を提出いたしました。それは、その要望の実現のために、「より人間的な社会をめざす立場からの連帯」として、最大限の取り組みをするということの社会的表明でもあります。
 ハンセン病回復者の方々に、二度と同じ苦しみを経験させてはいけません。ハンセン病問題をとりまく現状の中で、私たちはもう一度このことを自らに誓わなければならないのだと強く感じております。
 

《ことば》
昔は娯楽もなかったから宗教にはまらざるを得なかった…
だから思い入れがあるんだ

< 仙台教区 吉田美智子 >

 松丘保養園で、石川勝夫自治会長が「将来構想」について話をされる中でお聞きしました。
 当時は、目の前にある現実から逃げたいのに逃げられず、宗教に向き合うほかに選択肢がなかったということをあらためて知ることとなった言葉でした。
 その「宗教」という言葉には、国策を支持し、間違った浄土の教えを説き、諦めを覚えさせ、生きよう生きよう、助けてと目の前で声を出しているのに共に生きようとしなかった私たちの歴史があり、それに続く私の歴史があります。
 隔離の中でも光を求めてやまなかった方々。その人たちが集いあう場をこれからもどう守り続けていくのか。“共に解放される”ということが今の私たちに問われています。

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2013年3月号より