─中国ハンセン病支援NGO─JIA(家)の
社会人キャンプに参加して─
<IDEAジャパン理事長 森元 美代治>
二〇〇四年に非営利活動法人IDEAジャパンを設立して以来、私は理事長として国内外で活動してきました。IDEAとは、The International Association for Integration, Dignity and Economic Advancement(共生・尊厳・経済的自立をめざすハンセン病患者・快復者国際ネットワーク)という意味です。これまでアメリカ、ハワイ、台湾、韓国、ネパール、タイ、インドネシア、ブラジル、フィリピン等の療養所を訪問し、快復者と交流を続けてきました。
昨年十二月十三日、南京市江東門にある記念館での南京大虐殺追悼集会に、長谷良雄さん(滋賀)、浜崎眞実神父(神奈川)、門屋和子さん(長野)に、わが夫婦(森元美代治・美恵子)、山内小夜子さん・久米悠子さん(ともに京都)の七名で参加しました。
中国政府は、南京市民や多くの国民の要請に応えるかたちで、昨年よりこの行事を「公祭(国家追悼記念日)」としたのです。気温八度以下の底冷えのする大広間には一万人の観衆が集い、午前八時ごろから立ったままで約二時間の式典が行われました。脚力のないわが夫婦は無理だったので、ホテルでテレビを見ながら参加することにしました。式典は世界に向けて英語の同時通訳でテレビ放映されました。この式典に初めて出席した習近平国家主席は「歴史認識については日本政府に妥協しない」と述べただけで、今後の日中関係についての厳しいコメントはありませんでした。
翌十四日には慰安婦問題の権威、上海師範大学の蘇智良教授の案内で慰安婦資料館を見学。日本軍がいたころには決まって慰安所があり、上海には西洋風の赤レンガ造りの慰安所が歴史建造物として保存されていました。
門屋さんと私たち夫婦はその後、広州に移動して、ハンセン病快復村支援団体NGO─JIA(家)の社会人キャンプに参加しました。私にとって今回は八回目の訪問になります。広州の「小桂林」と言われる風変わりな山々を縫うようにしてワゴン車で五時間行くと、韶関市郊外の快復村には、二十五人が暮らしていました。底冷えのする日でしたが、各療舎から村人の皆さんが大はしゃぎしながら出てこられて、われわれの来訪を歓迎してくれました。七名のキャンパーたちは所内や集会所、キャンパー用の宿舎の清掃作業に取りかかりましたが、私は原田燎太郎君を通訳にして日向ぼっこしながら村人の皆さんと懇談しました。
二〇〇三年に広東省潮州市にある、当時最も貧しいと言われた快復村でキャンプしたとき、村人に質問したことがあります。「希望は何ですか?」と。「希望などない。早く死にたいだけ」という返事に暗い気持ちになったことを覚えています。今回訪ねた韶西村の人びとにも同じ質問をしてみました。「孫のような皆さんが異国の自分たちのために来てくれてうれしい。皆さんは私たちの希望ですよ。元気に長生きしたい」とのことでした。
リーダーの原田君や事務局の菅野真子さんはじめJIAの活動が村人たちに喜ばれているだけでなく、その活動の輪が地域社会や企業、団体、個人を巻き込んで発展していることにただただ驚きました。十五年ほど前には住人が五~十人程度から二五〇人規模の大小六二五の快復村がありました。原田君は一人では埒が明かないと、所在地の大学に行き、キャンパーを募ったのですが、怖がって男女一名ずつしか参加はありませんでした。その一人の女子学生が、後に原田君の伴侶となった女性です。
その三人が大学を動かし、NGO─JIA(家)を立ち上げ、現在、広東省、雲南省、湖南省、江西省などを中心に三千人のキャンパーがボランティア活動に参加しています。二百の村に一万八千人が生活していますが、大半が町村立の施設であり、そのほとんどが無医村でナースや介護職員はいません。村人たちはわずかな年金で自給自足の厳しい生活を強いられています。山間に建ち並ぶこの快復村の療舎には冷暖房設備はなく、一日二回の食事は村長さんの奥さんが薪で煮炊きをしていました。
私が始めて中国を訪れたのは一九九九年、北京で開催された国際ハンセン病学会でした。レセプションで保健省健康局長が、「中国ではハンセン病のことを麻風といって恐れられ、皆さんのように同じ食卓について食事をするなど考えられないことです。これを機に中国政府としてハンセン病に対する正しい知識普及のための啓発活動に努めます」と挨拶され、万雷の拍手が起こったことが強く印象に残っています。
しかし、あれから十六年、残念ながら快復村には著しい環境変化は見られませんが、学生や地域社会の人びとがJIAの活動に積極的に参加するなど、徐々に変わりつつあることを肌で感じました。
《ことば》
「ここの崖は自殺場所ですよ」
長島愛生園歴史館を案内していただいていたSさんが、ジオラマ模型のその場所を指しながらサラリと言われた言葉にドキッとした。
ハンセン病問題は国の隔離政策と、それに追随した大谷派をはじめとする各種団体があり、そのために多くの患者が…という過去の事象として机上では私も理解していた。
しかし現在も研修会でよく耳にする言葉が私たちの立場を如実に表している。「気付かされました」「勉強させてもらいました」。その場を取り繕うような、美辞と自己満足の言葉を入所者の方々はどんな思いで聞いているのだろうか。新たな疎外感をうみ、それが絶望感をうんでいないか? cされた時間は入所者の高齢化に鑑みるともう待ったなし。そんなに長くないだろう。また来よう此処に。新たな繋がりを紡ぎに、そして未だ聞きえぬ「ことば」の響きを聴きに。
(小松教区・新 康紀)
真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2015年4月号より