<高岡教区第二組慧聲寺住職 加賀田 栄香>
―去る四月二十日、高岡教務所で「真宗大谷派ハンセン病問題に関する懇談会第二連絡会」の公開講座が、「ハンセン病問題という問い」というテーマで開かれました。今号では、講師の加賀田栄香さんからお話しいただいた内容を抄録してお伝えいたします。
ハンセン病療養所に入所されている富山県出身の回復者をずっと訪ねまわっている者です。本当に高齢化が進んでいますから、訪問して生の声をお聞きしたり、今の富山県の状況を聞いてほしいんですね。ただ、「声を聞く」といっても、四年、五年通ってやっと一人ひとりが話してくださるようなもので、そんな関係をもたない限り、ご自身の過去をなかなか話してはくださらない。家族の方と関係を回復された方は、私の知っている限り二人しかいない。富山県では実家が残っている方が非常に少ないんですね。
一九九五年頃に九州の先輩のお寺へ行った時に「菊池恵楓園(熊本県)に行かないか」と誘われてから、毎年十月に通うようになりました。
一人で恵楓園へ行った時に、電話を借りて、長島愛生園(岡山県)の知人へ「恵楓園に富山県出身者はおられませんか」と聞いたところ、「何年も前に里帰りのバスで一緒になったことがある。その方の安否を確認してくれないか」ということで、福祉課に聞いたところ、二年前に八十六歳で亡くなっていたんです。そして、「この方に個人的に面会に来られたのはあなたが初めてです。それも富山県から。彼女を最期まで看取った方を紹介しますから、その方から詳しく聞いてくれませんか」ということになり、会いにいったんですね。
富山県出身のその方は、恵楓園に入所する前は他の療養所にいたのですが、お兄さんから「自分が亡くなったら、この家と一切縁を絶ってくれ」と言われ、自ら恵楓園へ志願して入って行かれた。結果的には姓を二回、名前を三回変え、誰にも見つからないように、富山県出身とは一切明かさないようにしてきたそうです。私がショックだったのは、最期を看取ってくださった方から、「富山県の実家から離れたい、絶ちたいという思いからでしょう。それだけ自分の存在が実家の人たちに迷惑をかけると思い込んでおられたようです。富山県はそれほど差別と偏見が強いのですか」と言われたことです。この言葉を投げかけられた当時、私は富山県の実態を知らなすぎたんですね。その時から、「亡くなってから出会うのは辛いから、今生きている人を探そう」と思い始めました。
草津の栗生楽泉園(群馬県)におられた方のことですが、その方は僧侶を憎んでおられる方でした。月忌参りの際に僧侶が、「この頃、娘さんの姿を見ないけど、あんた知らんか」と聞きだすことで、地域社会で広まってしまいました。仏間の裏の部屋にその方をお父さんが隠していたんだけども、保健所の職員に見つかり、連れていかれてしまうのです。その時に父親は「わしの大事な娘を島流しにするのか」と言われたそうです。そのような経過で、草津に行くんですね。そして、家も兄弟もみんな散り散りになってしまいます。当時の保健所と役場の職員の名前も顔もはっきり覚えている。「死んでもこの二人だけは恨み続けていく。このことによって自分たちがどんな目におうたか」と、語られたことを忘れることができません。
私の地元の富山県呉西地区では、収容する時は、マスクと帽子をかぶって、医者が着る白衣のような服で全身を覆って、保健所と役場の職員が駅まで、患者さんが歩いた跡を噴霧器によって消毒していったそうです。あたかも見世物みたいに、地域社会の人たちに「こういう人たちをっておってはあかんよ。早く密告して病院に連れていかないといかんのよ」と地域に見せつけた、いわゆる「無らい県運動」によって、市民の偏見や差別をあおったんですね。お互いに密告が始まり、月忌参りをしている私たち僧侶が、「あの家にたしかこんな人おったよね、この頃見ないけどどっかいかれたの」という聞き方をして、「いや家の中におるはずやよ」という話を繰り返していく。窓のない貨物列車に、「伝染病患者護送中」と地域社会の中で見せていく。すると、どういう結果が私たちの社会の中に起こっていくのでしょうか?
国の政策によって、地域社会の中で住民同士が密告するような人間関係や市民社会を作ってしまった。そんなことを考えますと、今は「ハンセン病問題ふるさとネットワーク富山」「ハンセン病問題に関する懇談会」と名のって療養所に会いにいったりしていますが、何故そのような取り組みをするのかが、私たちの中で問われないといけないのだと思います。
戦後七十年と言われていますが、戦争と同時代を過ごしてきたハンセン病元患者の方たちを、私たちの国や社会があえて消し去ろうとしていると思えるわけです。
片方では戦争ができる国に準備し、片方では高齢化した入所者が亡くなっていく。私たちは、ご自身の話を教えてくださった人を消し去る歴史に手を貸すのか、それとも歴史を検証していく立場に立とうとするのか。検証する歴史を自分の中でもっておかないと、次の世代に負の遺産をそのまま負わせることになるかもしれません。知らないうちに強制隔離に「いいことをしている」と手を貸してきた歴史を、大谷派や私たちの地域社会がもう一回考えないと、また同じことを我々の世代や次の世代の間に繰り返してしまうのではないでしょうか。当時のことを聞いていけば、「いいことをしている」と、密告者になっていくことが良い人と呼ばれたわけですね。
使命感や正義感からではなく、二十年前の偶然なる出会いから始まって、私たちの社会がハンセン病という一つの「い」を、ここまで追い込んできたという事実を、全く知らなかったという頷きが、私の歩みのスタートになったのです。
《ことば》
おんばこや 踏まれて素心 やわらかき
飯田 なほ子
星塚敬愛園に暮らす飯田なほ子さんの俳句です。「おんばこ」は「おおばこ(オオバコ科の多年草)」のこと。
自分の意志で足を踏み入れたわけでもなく、ただ成り行きで社会問題を学習し始めた私にとって、園でお聞きした体験談は、恨みであったり愚痴であったり、憎しみ苦しみが溢れ出る聴きづらい言葉として聞こえていた。自分とは関係のない遠い世界の出来事としか思えていなかった。
何の苦労も知らず生きてきた私にとって、この俳句の、あまりにも静かすぎる言葉に不思議な恐怖心を感じている。そこにあるのは、温かさと力強さ。何も知らなかった。何も感じようとしなかった無駄な時間を後悔させられた。
はじめて療養所に行った翌日、家族ぐるみでお付き合いのある方に話をした。「私の親戚にもいたのよ」。この時、何気なく通り過ぎた言葉が、今になって後悔される。これまで、どんな立場でお付き合いしていたのだろう。私は、飯田さんの俳句から、人に出遇うことができない自分を知らされた。如来の悲しみの声が私に響いてきた。
(長崎教区・清原昌也)
真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2015年7月号より