当事者を生きる─⑤
強制隔離に抗した念仏者
小笠原登に学ぶ─一人を見失わない─

<名古屋教区第十四組圓周寺住職 小笠原 英司>

 真宗大谷派の僧侶にしてハンセン病医師であった小笠原登は、およそ九十年に及ぶ日本のハンセン病強制隔離政策に反対した念仏者であった。当時ハンセン病は、「遺伝病、強烈な伝染病、不治の病」であると言われていたが、小笠原登は、一九三一年『癩に関する三つの迷信』という論文で、ハンセン病に対する誤解を説明している。「らいは重症にならぬ限り、家庭で仕事をしながら治癒できる疾患である。患者のため社会のために治療をすすめるべきである」と、強制隔離や断種を行う国策に異義を唱えた。
 小笠原登(一八八八〜一九七〇)は、愛知県海東郡甚目寺村(現在のあま市甚目寺)にある圓周寺に生まれた。圓周寺は、江戸時代末、登の祖父・啓實がシーボルト事件(蘭学者を処罰する言論弾圧)から身を隠すため、当時、空き寺であった圓周寺の住職となった。啓實は下級武士であり医者でもあったが、尾張藩医の浅井董太郎から医学を学び、その息子の浅井玄庵(後の山崎玄庵)を百日以上にわたり圓周寺にかくまった。山崎玄庵は高野長英の高弟であり、シーボルトの鳴滝塾で直接教えを受けた最先端の洋学や蘭学などを啓實に伝授し、啓實は彼からハンセン病の施術を授かったと言われる。山崎玄庵も幕府からの追跡を逃れて圓周寺へ身を隠した。
 圓周寺の始まりは、尾張四観音の一つに数えられる甚目寺観音の塔頭で、太子堂という聖徳太子をまつる天台宗の寺であった。親鸞聖人が関東から京都へ帰る途中、甚目寺の太子堂へ立ち寄られ、聖徳太子の尊像にお参りされた折、圓周法印が親鸞聖人から教えを受け、浄土真宗へ転派したと、圓周寺略縁起には書かれている。
 また、『一遍上人絵伝』(重要文化財「一遍上人絵伝 ウ巻」)には、一二八三年に一遍上人が甚目寺観音に立ち寄られたときの様子が描かれており、群衆の端に、被差別民やハンセン病者と思われる人の姿が描かれている。ハンセン病者は、人の多く集まる縁日などに施食や物乞いに集まった。
 江戸後期、そのようなハンセン病者が、圓周寺の啓實のところに治療に来たようだ。実際、圓周寺の境内には専光舎と呼ばれる建物があり、ハンセン病者が寝泊まりしたり、時には本堂で村の人たちと碁を打っていたと言われている。登が五歳の時に祖父・啓實は亡くなるが、ハンセン病は簡単にはうつらないことを、子どもながらに感じていたと思う。
 小笠原登は、地元の甚目寺尋常小学校卒業後、京都の真宗京都中学(現:大谷中学校)で大谷派教師を取得。父親の篤實は毎日のように説教に出る布教使であり、また兄の秀實は現在の花園大学、佛教大学、大谷大学、立命館大学などで教鞭をとる哲学者であった。小笠原登の「健病一如・薬毒不二・病療一致」、「科学(医学)と宗教とは別個のものではない」、「あらゆる恩に報いる言葉が南無阿弥陀仏」などの言葉は、仏教(浄土真宗)に生きる念仏者の思想が表れている。また、圓周寺には戦前・戦後の日記や直筆の『一枚起請文』。『教行信証』総序、愛用の『真宗聖典』などが遺されている。このように、小笠原登のハンセン病診療には浄土の教えが貫かれている。
 
 一九三一年の「癩予防法」制定により、ハンセン病患者は終生絶対強制隔離となり、それ以後の京都大学病院におけるカルテの病名欄には「らい」を表す「lepra」の文字が消えた。ハンセン病と診断すれば、療養所から一生出られない政策から、患者を守ったのである。「故郷を奪う、名前を奪う、子孫を奪う」、これらを奪ってしまうことから、患者を守ろうとした。ハンセン病療養所には、他の療養所にはないものが三つある。それは「火葬場、納骨堂、監房(監禁室)」である。そこでは、終生隔離により自由・平等・生存という基本的人権は尊重されていない。一人を見失う、全体主義(ファシズム)思想が流れている。
 昨年、NHKのETV特集で「らいは不治にあらず〜ハンセン病 隔離にった医師の記録」が放映され、その中で小笠原登に診察を受けられた、国立療養所・邑久光明園の春日和子さんと竹村貴美子さんが出演された。私はその二人にお会いしお話をお聞きすることができた。春日さんは、こう言われた。「私は最初に小笠原(登)先生に出会えてよかった。先生は病気や病人を嫌わなかったから、家の者にも嫌われんで普通に接してもらえた。この病気になったけど、本当によかったです。小笠原先生に会えて」。
 焚きこめられた香の香りが、知らないうちに衣に染み込むことを「薫習」というが、小笠原登は幼い頃から親鸞聖人の教えを学び、一人ひとりすべての人が願われた尊いいのちを生かされていることを知り、一人を見失わない、またいのちのつながりを大切にするハンセン病治療を行ったと、確信するのである。
合 掌
 
圓周寺近景(中央・筆者) 「一枚起請文」書写(仏子・登謹書とある)  

《ことば》
 「お帰りなさい」「ただいま」

 十数年前、東北新生園を全くあてもなく単身訪ね偶然にも一人の回復者と出会った。何度か訪ねているうちに交流会を開催し、お酒の勢いもあってか、「あんた達に何が分かるか?」との言葉に出会った。私は苦しみや悔しさを痛感したと同時に、私の表面だけの交流を見透かされたようでもあった。以来、交流を重ねてきた。でも、一つやり残したことがあった。私が「出迎える」ということだ。真宗門徒でない彼らを教務所の本堂で出迎えたかった。
 昨年十月、苦労の末に実現できた。教務所の前でバスが止まり、数名が降り、本堂の阿弥陀様を前に椅子につく。これまでの思いをこの一言に託した。「お帰りなさい」。
 涙が溢れる。彼らもまた涙を浮かべ、「ただいま」と返してくれた。この一言をこの本堂で言いたかった。実に地味な交流である。
 私はあの時の言葉に動かされ、「今」ここにいる。そして、ようやく出遇えたような気がする。響きあう言葉と場所は実はすぐそこにあった。ふるさとは、何時でも何処でも私たちを待ち続けてくれる。
(山形教区・水澤孝秀)

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2017年4月号より