当事者を生きる─⑥
小笠原登先生と後継者たち

<医学博士 和泉 眞蔵>

 第十回真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会での德田靖之弁護士の問いかけを受けた「当事者を生きる」というテーマのもと六回にわたって、ハンセン病問題に関わっておられる方々にご執筆いただいています。
(解放運動推進本部)

 
 日本においてハンセン病に対する「絶対隔離絶滅政策」の嵐が吹き荒れていた時代、京都大学では、真宗大谷派の僧籍を持つ小笠原登医師(一八八八〜一九七〇年)が、ハンセン病患者を守り、療養所外で診療を続けていた。この活動については、これまで多くの文献や書物が公刊され、またテレビでも放映されるなど広く知られているが、その医療を支えた小笠原医師のハンセン病医学の理念や、それがどのように継承され、現在でも世界のハンセン病治療のために役立っているかについては、あまり知られていない。この小論において筆者は、小笠原先生の孫弟子として、先生が始められた事業の現状と今日における意義を考えてみたい(以下、敬称略)
 

小笠原登のハンセン病医学
小笠原登医師  ハンセン病の病因に関する小笠原の学説は、一言でいうと「体質説」である。絶対隔離論者が、ハンセン病の病因について「らい菌」の役割ばかりを強調して、強烈な伝染力を持つ不治の病であり、どのような犠牲を払っても一日も早く撲滅しなければならないと喧伝したのに対し、小笠原は成長期に十分な動物性食品が摂取できないことによって生じる「性体質」の人にらい菌が感染した場合に発病すると考え、ハンセン病は結核などに比べるとはるかに感染力が弱く治りやすい病気であり、国民の栄養状態を改善することで自然消滅すると主張した。当時、様々な感染症の発病に体質が関与するという説が広く唱えられていたから、体質説そのものは小笠原の独創ではないが、国民の生活レベルの向上によってハンセン病の蔓延は防止できるとした点は、先生の独創であり先見性である。事実、戦後の日本では生活水準の向上によりハンセン病に罹る人は着実に減少して、今日ではほぼゼロになり、千数百年続いた日本のハンセン病の歴史は終焉を迎えている。
 

後継者たちの活躍
小笠原登先生の後を引き継ぐ先生たち(右端・和泉氏)  一九四八(昭和二十三)年、京大を定年退職した小笠原の仕事を継承したのは、筆者の恩師であるであった。ダプソン(ハンセン病の治療薬)などの本格的化学療法が日本でも始まった時代で、施設の運営方針も大きく変わり、小笠原の体質説もほとんど顧みられなくなった。西占はハンセン病の特徴である末梢神経病変の電子顕微鏡を用いた病理学の世界的権威で、語学に堪能な国際人であり、筆者が西占門下に加わった一九六七年には、多くの門下生が海外で活躍しており、筆者も世界的視野でハンセン病問題を考えるようになった。
 一方、一九七〇年代はじめに「免疫学」の爆発的な進歩が始まり、ハンセン病の病因論にも大きな影響を与えた。学生時代から、感染症は人体と細菌の相互関係の中で起きる生命現象という考えに馴染んでいた筆者は、急速に進む免疫学の手法を取り入れてハンセン病の病因を研究するとともに、小笠原の体質説についても再検討し、時代の制約による誤りもあるが、発病には人体側の要因が決定的に重要とする基本理念は正しかったことを明らかにした。
 

国賠訴訟と小笠原登

 小笠原が現在でも科学的に正しいハンセン病医学にもとづいて、絶対隔離政策を批判して京大病院で診療を続けていた事実は、「『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」において、「日本のハンセン病対策は、それぞれの時代に最も正しいと認められていた学説にもとづいて行われたので過失はない」とする被告国の主張を、根底から覆す有力な証拠として裁判官の心証形成に重要な影響を与え、二〇〇一年五月の原告完全勝訴に結びついた。
 この裁判闘争の間、勝訴の暁には賠償金の一部を拠出して社会貢献をしようと呼びかける原告があり、筆者も原告には世界のハンセン病医学の進歩のために役立つ喜びを味わってほしいと願っていたところ、多くの原告が賛同してくださったので、『インドネシアハンセン病治療研究開発基金』を設立して、毎年二万人もの新患が出るインドネシアの中でも、最も流行度が高いスラバヤにあるアイルランガ大学熱帯病研究所にハンセン病の研究室を整備した。二〇〇二年に筆者が赴任して活動が始まったこの研究室は、国際協力機構(JICA)の支援なども得て東南アジアでも有数のハンセン病の研究室に成長し、多くの若い人材を研究や医療・公衆衛生の現場に送り出している。
 

世界のハンセン病患者のために

 この研究室でいま世界的規模の新しい研究が始まろうとしている。毎年恒常的に二十数万人もの人が新しくハンセン病に罹っている現状を、「実用的発病予防手段」を開発して打破しようという壮大な研究である。国賠訴訟の原告の支援でできた施設が研究拠点の一つに選ばれたのは、インドネシアの中でも最も患者が多い地域の中心にあり、優れた設備と人材がそろっているからである。
 小笠原登によって京大で創設された活動が、八十年を経た現在でも形を変えながら人類全体のために役立っている事実は、小笠原のハンセン病医学が、仏教的慈悲の心に根ざしていただけでなく、その基本理念が科学的に正しかったことをあらためて示すもう一つの証左である
 

和泉眞蔵

一九三七年生まれ。一九六三年大阪市大医学部卒。京都大学医学博士。一九六七年から国内外でハンセン病の研究と診療に従事。二〇〇二年定年退職後はインドネシアで研究を続ける。現在、アイルランガ大学熱帯病研究所研究顧問。ハンセン病市民学会共同代表。日本ハンセン病学会理事。

 

訃報━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 去る三月十四日、玉城シゲさん(九十八歳)が亡くなられました。
シゲさんは沖縄県出身。二十歳の時に鹿児島県鹿屋市の
国立ハンセン病療養所「星塚敬愛園」に入所されました。
一九九八年、国賠訴訟の第一次原告十三人の一人として熊本地裁に提訴。
二〇〇一年の勝訴以降、ハンセン病への偏見や差別解消のため
全国で講演を続けられました。心より哀悼の意を表します。
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《ことば》
 人間であって人間ではなかったという悪法の中に生きてきた私たちは、
兄弟姉妹、親戚までどんな苦しみをしてきたことか、
国が草木をかき分けてでも、
この過ちを知らせるまでは、死ぬことはできません。
私たちが未だに「ライ病」ということを背負って生きていかなくてはならないのなら、
悲しくてなりません。死んでいくこともできません。
故 玉城シゲさん
(国立療養所星塚敬愛園入所者)

 シゲさんの、国を問い、社会を問うその姿から私たち自身も問われ、本当に多くのことを学びました。この言葉は、二〇一二年に療養所内で合理化政策が強行されることに対し、改善を求める実力行使をした際の「ハンスト宣言」、シゲさん九十四歳の時の言葉です。その志願を忘れません。受け継ぎます。
(解放運動推進本部・山内小夜子)

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2017年5月号より