国立療養所長島愛生園
<愛生園のお寺 ハンセン病問題に関する懇談会交流集会
部会チーフ・山陽教区 中杉 隆法>
「独り寝て 起きても独り ただ独り」
これは国立療養所長島愛生園にある『真宗同朋会会報』の一九九七(平成九)年九月号に掲載された会員の方の川柳です。
一九九七年というのはハンセン病隔離政策の根源であった「らい予防法」が廃止された翌年です。予防法が廃止され、隔離の必要のない存在としてありながらも、いまだに「ただ独り」ということを感じ、表現せずにおれなかった。その心境はいかばかりのものであったでしょうか。
そこにはハンセン病療養所における聞法生活、信仰というものがいかに行われていたのかということが、本当にそこに生きた人の言葉として表現されています。そしてその文章や俳句、川柳などの作品から、真宗同朋会がいかに当時の方々にとって大切なものであったのかが伝わってきます。
会員の中で、導師、仏間荘厳、過去帳記録保管、声明講習、会計、渉外、文書管理、機関紙発行、清掃など細かく担当が決められて、その活動報告もきちんと毎月掲載されています。それらの活動の中心であったのが、現在も私たちとの交流の拠点である真宗会館です。一九五八(昭和三十三)年に建立され、そこに安置されている御本尊は東本願寺から授与されたものです。これまでたくさんの人たちがそこに寄り合い、念仏を称え、聞法してこられました。
私が初めてこの真宗会館を訪れたのも、冒頭に紹介した川柳と同じ一九九七年のことです。教区で行われていた交流会に参加したときでした。本堂の扉を開けるとびっくりするくらいの大きな声で「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」とお念仏されていました。その中でもひときわ迫力のある声で称えられていたのが、当時の会長であるさんでした。真宗同朋会の大黒柱的存在であった(園名・)さんが亡くなられてから、それまで以上に、同朋会の皆さんをひっぱっておられました。
「あなたももっと大きな声で念仏しないとだめですよ」と、いつも私を叱咤激励してくださいました。多田さんは、長島愛生園の初代園長であり日本のハンセン病隔離政策を担ってきた氏を非常に尊敬され、最後までその姿勢を貫かれた方でした。一九九六(平成八)年の「らい予防法」の廃止、一九九八(平成十)年に提訴されたハンセン病違憲国家賠償請求訴訟と、ハンセン病療養所をとりまく環境が大きく変わろうとするときも、その態度は変わることはありませんでした。
私たち大谷派が、「謝罪声明」を表明しハンセン病問題と新たに関わっていこうとする方向とは、なかなか交われないものであったように思います。しかし、それでも教区の交流会や全国交流集会には必ず参加して、自分の思いを語られていました。それは意見や考えの違いをきちんと伝えることで、また一緒に生きるということがあるのだと伝えてくださる姿であったように思います。
「やっぱりいろんな人に会えたことだろなぁ、会長していなければこんなにもたくさんの人と会うことはなかったじゃろ」と、しみじみ言われました。
やはりお寺というところは出会う場所なのでしょう。私たちも交流会を主催していく中で、最初は愛生園のお寺に行くという思いでしたが、回数を重ねていく中で、それは鈴木さんをはじめ、そこにいる人たちに会いに行くということに変わっていきました。そこで出会うということで、その人とも私も「ただ独り」ということではなくなるのでしょう。
しかし、入所者の高齢化とともに真宗同朋会の活動もいろんな意味で大変になってきました。その中で鈴木さんは「任されたものとして最後までその責任を果たしたい」とおっしゃられます。これまでの同朋会の歴史の中で紡がれてきた願いを断ち切ることなく出会い続けていきたい、そんな思いを私たちも共有していかなければなりません。
真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2017年8月号より