国立療養所松丘保養園
最北端の療養所から
─隔離された人間も隔離した人間も
<ハンセン病問題懇談会に関する広報部会・奥羽教区 本間 義敦>
白道会・「死んだ時にお世話になるのだから」のお世話をする為の団体として、産声を挙げたのは、昭和二年(日は不明)である。
『松丘保養園八十年誌 白道会はかく歩めり』より抜粋
青森市の西部に、国立療養所松丘保養園はある。一九〇九(明治四十二)年四月一日に東北六県および北海道の連合立として、「第二区道県立北部保養院」の名称で設立、同年十月一日に現在地に完成移転された。一九四一(昭和十六) 年七月一日には厚生省に移管し、国立療養所松丘保養園と改称された。日本で最北端のハンセン病療養所である。
ピーク時の一九五八(昭和三十三) 年には九五〇床に及んだが、近代医学の進歩等により患者数は次第に減少し、これに伴って定床数もその都度改訂されてきた。医療法の定床は二〇〇六 (平成十八) 年二月二十日以降、四七七床となっている。現在の入所者は八十四名(二〇一七年八月末)、平均年齢は八十五歳をこえている。
今年で設立九十年を迎える白道会が、松丘保養園に設立されたのは一九二七(昭和二)年のことである。冒頭で紹介した文章にある「死んだ時にお世話をする」ということは、園内で不幸があった場合、幹事や理事より委託を受けて健康室という男性の部屋より若い者が出て、通夜の飾り付け、入棺から火葬、骨上げまでの世話をすること、また女性の幹事は通夜の晩のお手伝いをしたようである。そのことは白道会七代目の会長・菊池正實氏(以下、敬称略)の『白道会はかく歩めり』に書かれている。今少し菊池の書いた文章から白道会の歴史を鑑みるに、「白道会」という名前は、現在も青森市内にある真宗大谷派青森教会の前住職である宮川隆秀がつけたことに由来し、同園を訪れていた宮川が、仏教団体の創立に当たって善導の二河譬から名付けたとされる。
当初の白道会の歩みについて、園誌『甲田の』には、一九三六(昭和十一)年に本山の裏方(法主の妻)より本願寺畑寄設料の目録が贈られ、一九三九(昭和十四)年には、本山より慰問使として武田雷雄が講演に来園し本願寺畑を視察していることや、一九四一(昭和十六)年から一九七〇(昭和四十五)年までは赤松圓成が、ほぼ毎年に渡って布教に訪れていたことが記されている。
しかしながら、菊池が著書の中で、「白道会は、新田が会長で三好が主任坊さという体制で、葬式だけを唯一の仕事として、時を過ごすのである」と述懐していることや、現在の白道会会長である高橋善左衛門氏も、「年に涅槃会とお盆の例祭、あとは亡くなった方の連絡を受けて葬儀屋さんに任せるのが、現在の活動かな」と教えてくれた。
大谷派の同朋会はなかったのかとの質問に対して高橋会長は、「それは聞いたことがないし、会はなかったのではないか」とのことであった。その場におられた方で、四十年近く白道会の役員をされた方も同じ答えだった。
青森市内の真宗寺院である宗信寺の照井大観住職は、祖父の時代に松丘保養園から入所者の方がバスで何人もお寺においでになったことを覚えておられたが、同朋会等の布教に出かけられていたかどうかはわからないという。実際、『甲田の裾』には照井住職の祖父・照井周三の来園記録はあるものの、同朋会についての記述は見当たらない。
このことから、推測の域を出ないことであるが、松丘保養園には仏教団体はあったものの、真宗の同朋会はなかったのではないかと思われる。その理由としては、東北の地は他宗の影響が大きい地であり、園に近いということで曹洞宗の住職によって白道会の会員の葬儀がなされていたこと、また現在(二〇一七年八月末)の会員数が四十名に対し、真宗大谷派の門徒として会員になっているのは三名だけであることからも推察できるように思う。
松丘保養園にある楓林寺には、各仏教宗派の本尊が掲げられている。白道会では定例のの法要があるときや葬儀は、この楓林寺を会処にして行ってきた。現在、この楓林寺の成り立ちについても、白道会に詳しく残っている資料はない。ただ、『甲田の裾』の一九四一(昭和十六)年の部分に、松丘保養園の火災で消失して建て直されていることが、赤松圓成によって記述されている。宗教施設としての寺院が建立されていることは、宗教が園の生活に必要とされていたからであるが、前述の通り大谷派の同朋会が主体になって行っていたかは今ではわからない。以前は入所者の人数が多く、その半数が白道会の会員であったことや、日蓮宗の信徒が多かったため、楓林寺の鍵はその両者が保管していて、朝に開けていたということである。ただ、現在はお参りに行く人も少なくなり、鍵は法要を行うときにしか開けていない。年四回行っていた法要も、高齢化や参詣の減少に伴い今は二回になった。園内や白道会、楓林寺についての現状を、白道会役員のお一人は「先がないことがはっきりしている」と寂しそうに語られた。
現在、奥羽教区の共生協議会メンバーは松丘保養園で春には交流会をし、秋には白道会の報恩講を勤めている。謝罪声明の後、約二十年以上に渡り奥羽教区と松丘保養園との交流を続けている。松丘保養園には真宗大谷派の同朋会はなかったが、真宗の教えにふれる交流が今も続いている。
「隔離された人間も隔離した人間も、共に解放されなければ本当の解放ではない」。これは故藤井善師の言葉だ。解放の教えにお互いが出遇う場所を真宗の「同朋会」というのではないのか、との声が聞こえる気がする。この会も今年二十一年目を迎えた。しかしながら、園内の高齢化の波が押し寄せる中、年々参加者も減って来ており、交流の時間の短縮がはかられている。
園では今後、交流会館を建てることや、専任の学芸員がそこに常住すること、また楓林寺やその他の建造物等を保存していくことが考えられている。しかし、お参りする人のいないお寺というのがどうなるのかは想像ができない。
奥羽教区では入所者の聞きとりを行い、証言を保存し伝えていくことを活動の一環にすることが話し合われている。当事者の声を最後まで聞きとり、聞いた者が当事者となって最後まで伝えていくよう、今の歩みが必要である。なぜなら、それはハンセン病問題が単に特定の差別の問題を問うているのではなく、私たちの身の回りにもある普遍的な解放の問題を問うているからではないだろうか。
※新田が会長で三好が主任坊さん…二人とも入所者。新田正吉は会長を務めた。三好利吉は後に真言宗で得度されたとの記述があり、園内の葬儀や法要に出仕されていたようである。
松丘保養園内にある楓林寺
真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2017年11月号より