各園における真宗同朋会の歴史 ⑥
国立療養所邑久光明園
真宗法話会の歴史と今

<大阪教区ハンセン病問題を共に考える実行委員会 小松 裕子>
帰って来られた阿弥陀如来
大切にお護りされてきた御本尊
(西本願寺会館)
 邑久光明園の前身は、一九〇七(明治四十)年の「癩予防ニ関スル件」の施行に基づき、全国を五区に分けた中、二府十県(大阪、京都、兵庫、奈良、和歌山、三重、滋賀、岐阜、福井、石川、富山、鳥取)によってなる「第三区連合府県立外島保養院」であり、現在の大阪市西淀川区中島付近にありました。
 当時、療養所の居住棟の中心には礼拝堂があり、六つの宗教団体が公式に認められ、保養院開院時にはすでに、現在の真宗法話会の前身である真宗講が組織されていました。『保養院年報』には「」という項目があり、開園当初から終生隔離の方法として、患者には不治の病とする一方、その病気に立ち向かうための精神的な支えとして、宗教を奨励していたことがよくわかります。開園当時の収容人数二五四名のうち真宗の会員は一一四名でありました。真宗の布教使も年に一〜二回の「慰問」が続いていました。
 ところが、一九三四(昭和九)年九月二十一日の室戸台風により施設は壊滅し、入所者一七三人(当時の入所者五九七人)を含む一九六人が犠牲になりました。建物はすべて流されたのですが、本尊の阿弥陀如来は翌日浜に打ち上げられて奇跡的に流失を免れ、皆のもとに戻って来られました。このことを大佛正人師(後述)は折にふれその時の喜びを伝え、法話会の会員に語り伝えてきたそうです。一九三八(昭和十三)年、瀬戸内海の小島・長島に邑久光明園として再出発するまでの間、大阪の本願寺派津村別院にて仮安置され、その後、光明園の礼拝堂に移されてから、今も信仰の依りどころとして、法話会の会員が集まる西本願寺会館に安置されています。
 

御堂の建立

 
 待ちに待ちし 落慶法要いとなまれ
  われいつ果てむも 悔いなかりけり
 みほとけの 慈光の中に生かされて
  今日の佳き日に 会ふがうれしも
 
 この短歌を作られたのは、真宗法話会創立より中心になって聞法を続け、一九六九(昭和四十四)年に七十六歳で亡くなられた、寺院出身の大佛正人師です。礼拝堂が共同の本堂であり、宗教行事だけでなく慰問娯楽に使用頻度が増す中、個別の本堂建立は法話会会員の悲願でありました。戦後、慰問法座のたびに仏教会館建立の嘆願がなされたのですがなかなか進まず、一九五三(昭和二十八)年、東西両本願寺社会部に嘆願書を出し、御堂建立委員会を組織し募金をはじめ、御堂建立の願い出により、翌年七月一日に大谷派の宣陽院榮韶、十月三十日には本願寺派井上明海の来園により、二百数十名の帰敬式が執行されました。その後、大谷派の積極的な動きはなかったのですが、本願寺派では、一九五七(昭和三十二)年、宗祖七百回御遠忌記念事業の一環として全国各地、海外より懇志が寄せられ、翌年十一月四日落慶法要が厳修され、西本願寺会館と命名されました。
 盲人会誌の『白杖』には、毎日六時半からのお朝事に白杖をつきながらお寺に通い、大佛師の導師のもと、自分たちの集える西本願寺会館でお勤めが出来る喜びが綴られています。大佛師は御堂建立に力を入れられましたが、このこと以外にも外島時代から、病気になり隔離されて生きる目的を失い、賭博に明け暮れる人たちに、せめて故郷からの手紙が読めるようにと、礼拝堂で大人にも子どもたちにも勉強を教え、学ぶ喜びと生きる希望を取り戻させたといいます。
 お寺での年間の行事としては、春秋の追弔会、降誕会、盂蘭盆会が勤まり、報恩講には西本願寺兵庫教務所より、月例法要には兵庫教区岡山組からの布教使による「慰問」布教が続けられ、今も本願寺派との関係は途切れることなく続いています。
 

大谷派との関わり

 機関誌『楓』誌の記録では、多田慶男師、赤松圓成師の「慰問」が一九五五(昭和三十)年十月から続いているとあります。赤松圓成師は愛生園に一九三八年から行っておられるので記録はありませんが、光明園にも行っておられたと思います。一九六六(昭和四十一)年から一九七六(昭和五十一)年まで山陽教区社会教化委員会として龍泉寺多田慶男師、志方道場渡辺耕信師等がたびたび訪問しておられます。それ以降しばらく関わりがなかったのですが、大谷派の「謝罪声明」の後、一九九八(平成十)年より現在まで、これまでの「慰問」布教から同朋としての関わりを願っての交流が続いています。
 

福島のこどもたちの帰る場所
福島の子どもたちを迎えて
(ワクワク保養ツアーin邑久光明園)
 二〇一一年三月十一日の東日本大震災以後、毎年夏休みに福島の親子を光明園に招待して保養ツアーを開催しています。自治会や園の職員の方々もあわせ、光明園全体で支援していただいています。これは外島時代から患者の自治を大切にし、患者に寄り添った医療ということを念頭に入所者との関係を結んできた光明園の願いが、みんなを動かしているのだと思います。真宗法話会の会員さんたちも陶芸や手芸での交流など、「ただいま」と言って帰ってくる子どもたちを、毎年「おかえりなさい」と優しく迎えてくれています。「来年また来てくれるのが待ち遠しいし、来年まで元気でおらなあかんなぁ」という声を聴くと、生きること、出会いのすばらしさを感じずにはおれません。
 法話会にいつも出てこられるのは、法話会会長の吉田藤作さんを中心に六、七人になりました。こういう機会をいただいていろいろ歴史を調べていく中で、高齢化が進む園において一人ひとりの歴史をもっと丁寧に聞き残して、伝えていく必要を感じました。
 二〇一七年十月現在の光明園の入所者数は一〇五名、法話会の会員数は四十二名です。
 
*参考文献─『外島保養院年報』、『創立八十周年記念誌』、
      光明園機関紙『楓』、盲人会誌『白杖』
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〈お詫び〉
 本誌前号の「ハンセン病はいま」で、文中に紹介したお名前に誤りがございました。
 宗信寺住職(故人)は正しくは「照井周二」氏です。誤って「照井周三」氏と表記しておりましたが、ここに訂正し、謹んでお詫び申し上げます。
 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2017年12月号より