各園における真宗同朋会の歴史 ⑪
国立療養所菊池恵楓園
菊池恵楓園 真宗報恩会の解散におもう

<ハンセン病問題に関する懇談会委員 久留米教区 田中 一成>
真宗報恩会から真宗同志会
やすらぎ総合会館(1993年竣工)  私が熊本県合志市にある菊池恵楓園を訪れるようになったのは、ハンセン病国家賠償請求訴訟が原告側の全面勝訴となった翌年の二〇〇二年からである。それから今日まで、教区主催の交流会(報恩講や彼岸会など)に年六回程、参加させてもらうようになった。
 恵楓園には、やすらぎ総合会館という礼拝施設があり、室内には様々な宗派の御本尊が横一列に壁で仕切られ荘厳されている。その中央に大きな阿弥陀如来の木像があり、そこでみんなでお勤めをして、ご法話を聞き、その後は場所を変えて食事をしながらの懇親会という流れで、交流会が継続して開かれている。今年の春季彼岸会は浄土真宗本願寺派熊本教区が主催した。
 現在、恵楓園には真宗同志会という東西本願寺の門徒を中心とした会があり、その方たちに協力をいただいて交流会を開くことができている。その真宗同志会が結成される前に真宗報恩会という会があったが、一九九六(平成八)年に解散されているということだ。残念ながら、現在の真宗同志会の方たちは、真宗報恩会の活動や解散に至った経緯を知らないそうで、当時のことを伺うことはできなかった。
 二〇一一年に八十歳で亡くなられた佐々木静馬さんが、真宗報恩会最後の会長を務められていたということだった。幸い、佐々木さんが生前に『念仏との出遇い─ハンセン病国立療養所入所者の証言①』(財団法人同和教育振興会発行)の中で、真宗報恩会について語っておられた。その証言をたどってみることにする。
 

真宗報恩会の歴史に聞く
1936年に建てられた礼拝堂(1991年の台風で全壊)  佐々木さんは元々本願寺派の寺の門徒で、幼少からよくお寺にもお参りされていた。一九五一(昭和二十六)年、二十歳の時に病状が悪化して恵楓園に入所され、その手続きの時に宗教は真宗でということになり、そのまま真宗報恩会の会員となられた。
 当時、恵楓園には西日本一ともいわれた礼拝堂(一九三六(昭和十一)年建立、民間の財閥から寄贈されたらしい)があり、そのすぐ前の寮に配属されたことを喜ばれている。その礼拝堂の中には区切りがあって、上下二段の、高さが違う席があった。下の席が患者席で一六〇畳くらいはあった。それを囲むように欄干があり、その外側の一段上のところに訪問者や看護師や職員の席があった。六十〜七十センチくらいの段差があり、上の席がある段は掃除の時も入所者が入ることは許されなかったと、礼拝堂の中でも差別されていたことを証言されている。
 当時は、真宗の御本尊として阿弥陀如来の絵像が掛けられており、佐々木さんにとってはお参りできることがうれしくて、礼拝堂のお世話をするようになったという。真宗報恩会は自治会の発足とあまり変わらない時期で、一九一二(大正元)年には結成されていたのではないかと言われている。
 真宗以外の信者も真宗報恩会に入っておられて、入所者の三分の二が会員だった。多いときで千人近くの会員がおられたそうだ。
 他の療養所でも園内にそれぞれの宗教施設が建立されていく中で、恵楓園にも真宗の本堂を建てようという話が本願寺派の師のはたらきかけで進んでいた。しかし、入所者の減少から、新しい本堂を維持できるかどうか、また真宗のご門徒が礼拝堂に通わなくなると、もぬけの殻になり、礼拝堂を守る人がいなくなって園側が困ることになるとして、その話は頓挫したということだ。
 真宗報恩会では、五のつく日に必ず定例法要が勤まっていた。それ以外に物故者のご命日法要なども、みんなで正信偈をお勤めしていた。恵楓園に本願寺派の僧侶が入所されていた影響が大きかったようである。その法要に際し東西本願寺から多くのご講師が来園されたという。
 法話の時には、礼拝堂の段差の上から話をされることが多かったが、兵庫県の師は、下の席まで降りてきて話をされていたのが印象に残っているという。赤松先生は高齢になり身体が動けなくなるまで、たびたび来園されていたそうだ。
解体される礼拝堂(1994年11月)  佐々木さんは一九八八(昭和六十三)年から一九九六年まで八年間会長を務めていたが、その間の一九九一(平成三)年の台風被害により礼拝堂は取り壊された。
 真宗報恩会の運営については、次第に世話人を引き受けてくれる人がいなくなったり、法要を務めても、お勤めには百人くらいの参詣があるのに、法話の時には十人くらいしか残らないという状態になっていたそうだ。
 また、会員の高齢化や、僧籍を持つ入所者が物故者法要を勤めることへ賛否もあったそうで、今後の会の運営についてアンケートをとることになった。その結果、解散に賛成という意見が過半数となり、一九九七(平成九)年三月末で解散することが決まったということだった。
 

教えに出遇う場を開く

 佐々木さんの証言からあらためて教えられたことは、礼拝堂という平等であるはずの場が、柵で隔てられ、段により上下に分けられた構造であったという問題である。
 この礼拝堂で、上段から下を見下ろして法話をすることが、入所者にどう受けとられていたのか。そのことを想像すると、慰問布教として東西本願寺が担ってきたことが、果たして真宗の教えに出遇う場を開くことにつながっていたかと自らに問う必要があると思った。
 現在の真宗同志会との交流会も参加する入所者は四、五名となった。私はこれからも恵楓園へ身を運び、真宗報恩会から真宗同志会へと伝えられた思いや歴史をねていきたい。
 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2018年5月号より