国立療養所東北新生園
東北新生園真宗慈光会の歩みをたどる
<ハンセン病問題に関する懇談会第一連絡会・仙台教区 磯崎信光>
宮城県登米市に在する、国立ハンセン病療養所東北新生園。小さな盆地のような様相を呈する園内を見下ろす場所に、「西本願寺会館」という右書きの額を掲げた会館が建っている。私が先輩方に連れられて東北新生園を初めて訪ねたのは、十数年前のことだったと思う。以来、一度もこの会館が使われているところを見たことがない。ただ、「真宗慈光会」と称する真宗のご門徒方の会が園内にあるということは聞いていた。今回この機会をいただき、あらめてこの会館にまつわる由来を振り返ってみたい。
数少ない手がかりである、新生園の機関紙『戸伊摩(といま)』(松尾芭蕉の「奥の細道』にある地名に由来する)や、自治会記念誌等の資料によりたどって見ると、東北新生園は一九三八(昭和十三年四月一日に「らい療養所東北新生園」として創設され、一九三九(昭和十四)年十月二十七日に開園式を迎えた。そして開園間もない翌一九四○(昭和十五)年四月二十六日には、東本願寺より阿弥陀如来像が贈られ、当時の仙台教務所長が入仏式を執り行ったという記録がある。このご本尊にどのような人の関わりがあって贈られたのかは定かではないが、資料からは遺骨の安置室兼葬儀などを行う時にも使用した阿弥陀堂という建物に安置されていたように読み取れる。当時は、入所者自ら仲間の遺体を火葬する作業に関わらざるを得ず、お弔いのお勤めをする時に使われていた建物だともいう。このご本尊の話から、園と真宗大谷派との関わりが、すでに開設当初から始まっていることがわかる。
しかし、園内の真宗同朋会である真宗慈光会の正確な発足の経緯については、残念ながら確たるところはわからなかった。戦後ずっと会を支えてこられた本願寺派の寺院の方にお話をうかがったところ、当時のご住職が園を訪ねた戦中から戦後すぐの頃にはすでに会があり、入所以前に浄土真宗を信仰していた方々の会として、本願寺派・大谷派関係なく参加されていた、と教えていただいた。その後は、この本願寺派の寺院のご住職が、会の皆さんを支える中心となっておられたようだ。
新生園の周辺は曹洞宗の寺院が多い地域であるが、会には多い時で六十〜八十名程の方が関わられていたということなので、その割に多くのご門徒の方が園内におられたことになる。
かつて「真宗慈光会」が活動していた西本願寺会館
現在も残る西本願寺会館は、園の資料を見ると本願寺派の援助と園内のご門徒方の懇志によって、一九五八(昭和三十三)年十月二十五日に落成している。資料には当時の布教師として堀本幸信氏、渡部常見氏というお二人の名前が記されている。真宗慈光会の他に、天理教や曹洞宗、キリスト教系の各団体の信者の方々の活動が見られる中でも、この本願寺派の寺院のご住職は、ほぼ毎月精力的に活動された姿が記録されている。会の定期的な活動としては、毎月全国から布教師が来園しての法話、春秋二回の法要と報恩講、お盆法要、修正会等が挙げられている。その他にも会員が亡くなられると、お寺の方に葬儀や法要の依頼がなされるという関係が現在に至るまで続いていた。後には本願寺派としても、教区内からの布教師の派遣等の関わりがなされていったようだ。
園内の納骨堂である「霊安堂」
真宗慈光会は、二○一一年の東日本大震災よりも以前に、会員の方の高齢化によりすでに活動を休止し、やがて会員が十人を切ったこと等をきっかけに一昨年解散されてしまったそうだ。西本願寺会館にあった仏具などは、真宗慈光会を支えてこられた本願寺派の寺院に遷された。閉鎖された会館は荒廃し、現在は入ることもできない。新生園では一九八六(昭和六十一)年に、園で亡くなられた方々のご遺骨を安置するための霊安堂が開設され、そして今では入所者の方が亡くなられた時に葬儀を行うことのできる施設の「さくらホール」が園内に建てられ、そちらで宗旨を問わず葬儀が行うことができるようになっている。
真宗大谷派と園の関わりとしては、戦後間もないころに園へ毎月機関誌『同朋』を送っている程度の記録しか見受けられず、不明である。ずっと後になってハンセン病国賠訴訟等をきっかけに、大谷派仙台教区でも再び園へ足を運ぶようになり、現在に至っている。
いざ真宗慈光会の歩みをたどる調査に取り掛かってみると、会員であるご門徒に直接お会いしたことがないため、保存されていた書籍や記録資料を主とした調査に留まってしまったことが反省としてあげられる。今回、職員の方や関係のある方を通じて、当時のことを知る方や資料を探していただいたのだが、残念ながらそのような方にはお会いすることができなかった。「間に合わなかった」ということだと自省している。しかし、慈光会の設立の経緯や現状について、会を支えてこられた本願寺派の方にお話をいただくことができたことは本当に幸いだった。
ハンセン病療養所では、近年入所者の方の高齢化に伴う将来の不安や、活動の縮小ということが心配されている。しかし、これは園の中のことだけなのだろうか。園の外でも、地域の過疎、言い換えれば縮小していく人間関係がある中で、墓じまい、お内仏の整理という言葉が珍しくない時代である。どのように日々を営んでいくか、不安や限界を迎えた時、残された側に何を托されていくのか私たちに教えてくださっているようにも思う。新生園ではないが、他の園の教会を守る同朋会の方の、「(高齢化で)この寺を守れる人はもうあとはいない。後は皆さん方(私たち僧侶)に、なんとかしてほしい」という声が重く思い出される。閉ざされた西本願寺会館が物語るものは、決して「ハンセン病療養施設にかつてあった一会館」という特別な姿ではないのではないだろうか、そう感じさせられた。これからも、私はその足跡をたどり続けていきたい。
真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2018年1月号より