福井県あわら市にある福圓寺で、中国近代文学の父・魯迅と交流のあった日本人医師・藤野厳九郎師の命日を偲ぶ集いがありました。国籍を超えた、二人の関係が今の世に問いかけるものとはー。
■わが師
福井県あわら市出身の医師、藤野厳九郎(1874〔明治7〕年―1945〔昭和20〕年)をご存知でしょうか。仙台医専時代に、後に中国を代表する文豪となる魯迅(周樹人)と出遇い、魯迅が生涯の師と仰いだ人物です。
この記事では敬意を込めて藤野先生、魯迅先生と呼ばせていただきます。
私が所属するあわら市の福圓寺には、藤野先生のお墓があります。
魯迅先生は後年、小説『藤野先生』(松枝茂夫訳)で、師との交流を描きました。
「私がわが師と仰ぐ人のなかで、彼こそはもっとも私を感激させ、私を激励してくれたひとりである。(略)
夜、仕事につかれてなまけたくなったようなとき、そのたびに顔をあげて灯影の中に、彼の色の黒い、やせた顔を見やる。
すると、いまにもあの抑揚のひどい口調で、つかえながら話しかけてくるように思われて、たちまちまた私は、良心がふるい起こされ、勇気がましてくる」。
藤野厳九郎先生 (小説『藤野先生』(松枝茂夫訳)より)
【あわら市提供】
魯迅先生は、中国人の精神の解放と自立を求め、ペンで時代と闘った方です。先生がそれを志したのは、仙台医専時代に起きた「幻灯事件」※がきっかけとされます。当時、藤野先生は7歳年下の魯迅先生とどのように交流し、どのような感激を与えたのでしょうか。
※「幻灯事件」-魯迅の回想によると、仙台医専での授業後、日露戦争で日本が勝つ様子を伝える幻灯(スライド)が上映され、中国人がロシア軍のスパイとして日本軍に殺される場面があった。
仙台医専在学中の魯迅(前から4列目右から5 人目)
【「敷浪先生欧州留学記念」東北大学史料館提供】
■尊厳
小説『藤野先生』で描かれたのは、日清戦争の敗戦で中国人がさげすまれる時代にあって、熱心な学生だった魯迅先生のノートを添削した藤野先生の姿でした。周囲の学生が「ひいき」だと非難しても、藤野先生の態度は一貫していました。
生前の藤野先生を知るあわら市の土田岩男さんは、「藤野先生は魯迅を特別扱いしたわけではなかったと思う。あの時代において、ただ平等に接したのだ」と話してくれました。
藤野先生が魯迅先生に与えた感激とは何だったのか。それは、藤野先生の態度と人格における、打算のない平等性だったのではないかと思います。つまりそれは「本当に相手を尊敬する」ということでしょう。
人は、人から尊敬されることで初めて、自らの尊厳を見つめることができます。若き日の魯迅先生は、藤野先生から尊敬されることを通して、「尊厳」ということに目を向けていったのではないでしょうか。二人の出遇いの意味は、そこにあったのではないかと思います。
■道しるべ
2018年、藤野先生が亡くなった8月11日に、命日の集いを始めました。戦後74年が経った今だからこそ、二人の出遇いは未来への道しるべになるのではないかと思っています。
今や、生前の藤野先生を知る人はほとんど亡くなられました。市民の間で、記憶や関心は徐々に失われつつあると思います。あわら市は、魯迅先生の故郷である紹興市と姉妹都市関係を結び、毎年交換留学をしています。ところがこの事業も日中関係の変化によって、中止となる年もありました。
両国の間には深い谷間があります。それは戦争の記憶です。戦後74年が経ちましたが、この谷間はなくなったのでしょうか。私は忘れたふりをしているだけではないかと思います。
■見本
「念仏者とは一切衆生、一切の人間を「御同朋」と見出していく。そういう心をたまわったものであり、その歩みを開かれたものだというべきではないか」(『本願に生きる』)。宮城顗先生の言葉です。
一切の人間を「御同朋」と見出すとはどんなことなのか。私の生活において「相手を本当に尊敬する」とはどんなことか。藤野先生と魯迅先生の出遇いは、とても良い見本だと思います。これまで私は、二人の出遇いをただの美談で終わらせていたように思います。
今年の命日の集いでは、小説『藤野先生』の一節を参加者で一緒に素読しました。小説は最後、次のように締めくくられます。
「私は、良心がふるい起こされ、勇気がましてくる。かくて一本のタバコに火をつけ、ふたたび『正人君子』のやからに深くにくまれる文章を書き続けるのである」
魯迅先生が闘ったのは、人びとが尊厳を徹底的に奪われた当時の中国社会でした。今、私たちが暮らす社会はどうでしょうか。二人の出遇いを問い尋ねながら、今の世を憶念していきたいと思います。
二人の銅像が立つ「藤野厳九郎記念館」にて【あわら市提供】
(福井教区通信員・藤 共生)