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-京都教区の大谷大学卒業生が中心となって結成された「京都大谷クラブ」では、1956(昭和31)年から月1回、『すばる』という機関誌が発行されています。京都市内外のご門徒にも届けられ、月忌参りなどで仏法を語り合うきっかけや、話題となるコラムを掲載。その『すばる』での連載のひとつである「真宗人物伝」を、京都大谷クラブのご協力のもと、読みものとして紹介していきます。近世から近代にかけて真宗の教えに生きた様々な僧侶や門徒などを紹介する「人物伝」を、ぜひご覧ください!
真宗人物伝
〈19〉光遠院恵空師
(『すばる』740号、2018年1月号)
光遠院恵空師肖像画(大谷大学博物館所蔵)
1、堂僧として
光遠院恵空師(1644~1721)は東本願寺教団における僧侶の修学機関である学寮の初代講師に位置づけられる人物です。その生涯については、享保7年(1722)1月22日に弟子である慧暁(1677~?)が執筆し終えた『恵空老師行状記』から知ることができます。
恵空師は、正保元年(1644)5月15日に、近江国野洲郡金森の善立寺(京都教区近江第四組、滋賀県守山市)で生まれました。父は信空と言います。
寛文元年(1661)、18歳になった恵空師は、幅広く仏教を学びたいと思い、比叡山に登って3年間学びます。しかし真宗の教えに立ち返ろうと決意をし、比叡山を下りました。それはあたかも親鸞聖人のようであると、慧暁は記しています。
その後、京都で誓源寺の円智(?~1669)のもとで宗学を学びました。東本願寺14世琢如上人(1625~71)の信任も厚かった円智は、宗門の中でも秀でた人物であると、恵空師を琢如上人へ推薦します。そして寛文10年(1670)2月頃、27歳の恵空師は、宗学での功績から、堂僧(御堂衆、堂衆)として「出堂給仕」することとなりました。翌年10月には、本山御堂での法談が許可され、教えを請う人々が数多く参集するようになりました。
そして延宝8年(1680)12月12日、37歳で京都の西福寺(京都教区山城第二2組、京都市中京区)へ入寺しました。ただ学問に専念したいと思っていた恵空師は、幅広い職務のある堂僧を辞することを願いましたが、聞き届けられないまま年月を過ごします。
2、学僧として
そうしたところ賀府の養寿院という人物が上洛して、東本願寺家臣である粟津大進へ「このまま恵空師が堂僧を勤め続けると、その学問が絶えてしまうので、堂僧を免除してあげて欲しい」と要望しました。
そして天和3年(1683)閏5月1日、40歳の恵空師は堂僧を免除してもらえることとなりました。これにより、学問に専念する学僧が誕生することとなり、以後、学寮は学僧である学寮講者が主導的役割を担っていきました。
同年秋頃には一切経を周覧していますが、それは堂僧を辞することができたために可能となったのでしょう。その後も、栂尾の高山寺(京都市右京区)や嵯峨の二尊院(京都市右京区)といった寺院でも収蔵書物の閲覧を行っており、精力的に勉学に励んでいます。
正徳5年(1715)10月21日、東本願寺17世真如上人(1682~1744)は、72歳の恵空師を呼び寄せて「今後は学寮における僧侶への教育を任せる」と言い渡し、翌年の享保元年4月15日に恵空師は初めて渉成園内の学寮講堂で、聴衆僧侶に対して『大無量寿経』を講義しました。のちに、これが「安居のはじまり」と言われるようになりました。(【教学研究所コラム 聞】安居のはじまり)
そして享保6年(1721)12月8日、78歳で没しました。葬儀には遠近から数多くの僧俗が群集し、悲しみに暮れたと伝えられています。
3、暁烏敏編『恵空語録』
このような近世前期の学僧である恵空師が残した言葉に感銘を受けた人物に、近代の教学者である暁烏敏(1877~1954)がいます。明治42年(1909)4月28日に、暁烏敏編の『恵空語録』が、浩々洞の出版部である無我山房から刊行されました。そこで暁烏は、絶待他力の大道を伝えうる英傑として、親鸞聖人、蓮如上人、さらには師と仰ぐ清沢満之(1863~1903)と、恵空師を並び称しています。
恵空師の幅広い学びと人望のあった人生、そして信心から紡ぎ出された言葉の数々は、現代の私たちも魅了されるものではないでしょうか。
■参考文献
松金直美「近代における「伝統宗学」史観」(教学研究所編『教化研究』第161号、真宗大谷派宗務所、2017年)