安居のはじまり
(松金 直美 教学研究所助手)

今年も七月下旬の二週間、安居が開講された。安居とは、宗門における学事の中心道場で、毎年京都において開催されてきた。享保元年(一七一六)、初代講師と位置づけられる光遠院恵空(えくう)(一六四四~一七二一)が『大無量寿経』を講じたことにはじまるとされ、本年で三〇〇年の節目を迎えた。
 
ただし三〇〇年前、突如として安居がはじまったのではない。その前段階に幾多の僧侶が学寮で講義を行い、また各地へ教化活動に赴いていた。
 
前述のように「安居のはじまり」を説明するのは、恵空の弟子である恵暁(えぎょう)(一六七七~?)が著した『恵空老師行状記』の次のような記述による。
 
正徳五年(一七一五)十月二十一日、東本願寺十七世真如上人(一六八二~一七四四)は恵空を呼び寄せて「今後は学寮における僧侶への教育を任せる」と言い渡し、翌年の享保元年四月二十五日に恵空は初めて渉成園内の学寮講堂で、聴衆僧侶に対して『大無量寿経』を講義した。
 
ここから後世、学寮における学事の最上位である「講師」職が、正徳五年に恵空へ初めて任命されたと言われるようになるのだが、この頃は講義の担当者をその時限りに講師などと呼んでいた。それが五十年程後になり、「講師」の職制や待遇が定められていくことにつながっていく。
 
東本願寺教団の学寮は寛文五年(一六六五)に創建されたと伝えられ、延宝六年(一六七八)になって渉成園へ講堂が建てられた。学寮創立当時の教学は、東坊了海(りょうかい)(?~一六七四)や長覚寺噫慶(いきょう)(一六四一~一七一八)といった堂僧が学寮の指導・教授を担っていた。また諸国で教化活動することで、各地に向学の僧侶を生み出した。御坊輪番や異安心調理も、堂僧の重要な職務であり、噫慶や恵空は同様にそれらを勤めていた。だが職務の多様化により堂僧の中から、教学研究に重点をおく学僧が、しだいに分化していくことになる。恵空は寛文十年(一六七〇)に堂僧として採用されるが、天和三年(一六八三)閏五月一日には堂僧の任務を一旦免除されて、同年秋頃には大蔵経の周覧に専念している。過渡期の姿と言えよう。
 
その後、宝暦五年(一七五五)に高倉通へ移転された学寮を僧侶養成機関の中核とする体制が構築されていく中で、しだいに恵空が初代「講師」とされ、「講師」に就任したとされる後に初めて学寮にてなされた講義が「安居のはじまり」として語られるようになったのである。
 
安居は聞法の場として開かれてきた学場である。講師陣や聴衆僧侶といった隔てなく、僧侶らの聞法者としての熱意が、安居を毎年開講し続けてきた。また歴代「講師」は、京都で安居を担当する以外の時期、各地で民衆教化も行い、聴衆僧侶は国元へ帰った際、門徒ヘ法話を行った。教えを求める人びとの存在が安居の背景にあった。
 
これから各教区において秋安居が順次開催され、京都にて研鑽された安居の講義が各地へ流布される。教学を研鑽し、教化伝道を推進して人の育成をはかりたいという願いは、近世前期以来、継承されている。このような伝統の中で私たちは仏法に出会わせていただいていると気付かされる。
 
(『ともしび』2016年10月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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