基調講演

ハンセン病家族が声をあげる ─ハンセン病家族訴訟─
東北学院大学准教授 黒坂 愛衣

 

●はじめに

ハンセン病家族訴訟は、親きょうだい等がハンセン病だった・家族・のひとたちが国を訴えた裁判です(二〇一六年春、熊本地裁に提訴)。今年六月二十八日に原告勝訴の判決が出ました。私は二〇〇四年からハンセン病回復者や家族の方々から人生体験の聞き取りを始め、二〇一五年に『ハンセン病家族たちの物語』(世織書房)を上梓(じょうし)しています。この家族訴訟では専門家証人として証言台に立ちました。
今日のお話を通して、みなさんにお伝えしたいのは次の三つです。──ハンセン病回復者やその家族の方々など、差別の対象とされてきた人々にとって、社会に対して声をあげる、被害を訴える声をあげるというのはいかに難しいか。しかしながら同時に、その声があげられたとき、当事者の声は社会を変える大きな力をもっているということ。そして、かれらが声をあげられるかどうかは、排除をしてきた、差別をしてきた、あるいはそういう歴史を忘れてきた社会の側、差別する側の人間が、どれだけかれらの声に耳を傾けることができるか、それにかかっているということです。

 

●被害を語る難しさ

北海道から沖縄まで五六一人もの方々が原告として名のりをあげました。しかし、実名を出しているのはわずか数人。それは差別を恐れてのことです。今なお、自分の身内にハンセン病の人がいたとわかると差別をされる、そういう社会が現在も続いているということをこの家族の方々の姿は物語っています。
ハンセン病隔離政策は、患者家族にどんな被害をもたらしたのか。裁判の過程では、原告の一人ひとりについて陳述書が作成され、二十九人が法廷で本人尋問を受けました。学校でのいじめや集落での村八分、結婚差別や就職差別といった被差別体験を、多くの方がここで明らかにしています。ご本人にとっては他人に言いたくない、忘れてしまいたいことを、かれらが言葉にしてくださったことで、患者だけでなくその家族にも差別が向けられていた事実が明らかになりました。
大変驚いたのは、差別が決して過去のものになっていないことです。原告に三十代前半の姉妹がいます。父親がハンセン病でした。そのことを母親から聞いたのは、彼女たちが中高生の頃で、二〇〇一年の「ハンセン病違憲国賠訴訟」に勝訴した頃です。結婚後、父親がハンセン病だったとそれぞれが夫に話すのですが、姉妹とも離婚に至ってしまいました。「らい予防法」が廃止されて三十年以上が経ち、二〇〇一年の「国賠訴訟」で勝訴したにもかかわらず、現在も差別が生き続けているという現実があります。
多くの原告は、差別から身を守るため、親きょうだいがハンセン病だった事実を周囲に隠して生きてこられていました。嘘をつき続けたり、友達を作らないようにしたり、さまざまな苦労がありました。このような被差別の苦しみを病気になった肉親のせいだと考え、親きょうだいを恨んで生きてきた、ずっと遠ざけてきたという原告も少なくありません。・本当の親を、なぜ遠ざけて生きてこなければならなかったのか・と悔やみ、それが裁判をする動機であったと語る方々がいます。

黒坂愛衣氏(東北学院大学准教授)
黒坂愛衣氏(東北学院大学准教授)

幼いときの辛い思いを封印して生きてきたという方々も、たくさんいます。「嫌なことは早く忘れたい。前を向かないと生きていけなかった。だから今回「あなたの被害は何でしたか?」と弁護士さんに聞かれても、初めはよく分からなかったし、答えられなかった」という方が何人もいます。何度もやりとりをするうちに、今まで自分が経験してきたことは差別だった、被害だったと思い至っていく。自分自身に対してさえ封印してきた過去の辛い体験は、それを聞いてくれる人が現れたとき、初めて語り始めることができるのですね。

 

●裁判から見えてきたこれからの課題

家族訴訟の判決では、患者だけでなく家族もまた、隔離政策の被害を受けてきたことが認められました。国は控訴せず、法的責任を認めました。判決文では「偏見差別除去義務」という、国には差別をなくす義務があったにもかかわらず、それを怠っていたということが書かれました。厚労省と国会議員だけではなく、法務省と文科省にも責任があったとされました。これはとてもよかった。
一方で、賠償金額は非常に低かったんです。原告側は一人あたり五五〇万円を請求していましたが、判決では原告がグループ分けされ、一番高い人たちでも一四三万円。原告の約三分の二の人たちは三十三万円です。しかも二十人は請求棄却。メディアでは「勝訴」として大きく報道されましたけれども、「私のこれまでの人生というのはたったこれだけなのか」とショックを受けた原告の方もいます。
今後の課題は、被害回復制度がどうなるか。原告の方々だけでなく、差別を恐れて原告になれなかった方々も当然いると原告団や弁護団は考えています。ですので、裁判に参加できなかった人たちも含めて、家族に対して一律の補償を国に求めています(※)。
また、実際に差別してきたのは私たち市民の側だという事実を真摯に受け止めなければなりません。裁判に勝って安倍首相は謝罪したけれども、「私はハンセン病の家族でしたということを周りの人に話せない」と、今なお多くの原告の方々が感じているという現実は変わっていません。
家族の方々が「うちの父ちゃんはハンセン病だったよ」と普通に話せる、そのような地域社会の人間関係をどうやって作っていけるのかが、大きな課題になっています。家族の方々の声、あるいはハンセン病回復者の人たちの声を、今日はたくさん吸収して、それぞれの地域に持って帰っていただければと思います。(抄録)

 
 

※十一月十五日ハンセン病家族補償法と名誉回復を図る改正ハンセン病問題基本法が成立、二十二日施行。補償法の前文に、国会と政府が「悔悟と反省の念を込め」「深くおわびする」と明記した。補償金は、回復者の親子や配偶者に百八十万円を支給。戦前の台湾や朝鮮半島の居住者、判決で認められなかった米軍統治時代の沖縄にいた人も対象とした。

 

《ことば》
「なんでこんな目に」
ハンセン病患者家族の体験報告から

 

この言葉を聞くなり「私に何の罪があって(我宿何罪がしゅくがざい)」の、あの観経(かんぎょう)・韋提希夫人(いだいけぶにん)の悲痛な叫びと宿業論が頭をよぎりました。この奥にある人が持って生まれた業の闇を思わざるを得ません。それが家族共有だけに過酷です。
かねがね釈尊の説かれる四苦(生老病死)の内に、「生」は苦なのかという疑問がありました。それは、過去にいろいろあったけれど、曲がりなりにも「今在(あ)ることはありがたい」の生への納得があるからです。いま聞く言葉は、そんな甘さを根っこからくつがえします。いわれのない偏見と差別の目、わが身に起きれば「神も仏もない」と恨んだに違いありません。逆に、身近に患者家族の存在に冷静で居られただろうか、人に潜む「業の問題」に大谷派と仏教界はどう対応してきたのだろうか、改めて宗教の根元命題を考えさせられました。
(富山教区門徒会 松本弘行)

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2020年1月号より