誠にこれ、大小・凡聖・定散・自力の回向にあらず。かるがゆえに「不回向」と名づくるなり。
(『教行信証』「信巻」・『真宗聖典』二三二頁)
子どもの保育園卒園の際に、知人が『君のために できるコト』(菊田まりこ著、学習研究社)という絵本を贈ってくれました。そこには、気のきく「くまお君」と、口下手な「くま子ちゃん」が登場します。くまお君はいつも、くま子ちゃんの望んでいることを叶えるために行動しますが、そのたびに彼女は、「あのね……」と言いかけては口をつぐんでしまいます。くまお君は、自分の与えるものについて何も言わないくま子ちゃんへ苛立つのですが、彼女がずっと言えなかった言葉とは、「ずっと一緒にいてくれる?」ということでした。
与えることに心奪われ、「いる」という世界が与えられていることを、私自身が見失いがちであることを感じさせられました。
それを読んで想い起されたのが、右に掲げた「三心一心問答」欲生心釈の言葉です。欲生心とは、第十八願において「我が国に生まれんと欲え」と衆生に呼びかける如来の心のことを表します。そこに「自力の回向に非(あら)ず」と、強く述べられるのはなぜでしょうか。
回向とは「回転趣向」、すなわち積まれた善根を他に振り向け与えることを表します。その否定形である「不回向」は、法然上人が『選択本願念仏集』「二行章」に記している言葉です。そこでは、本願の念仏は「別に回向を用いざれども、自然に往生の業となる」(『真宗聖教全書』九三七頁)と述べられています。回向自体は大切なことなのですが、法然上人在世の当時、積善・回向により利益を得るという宗教の在り方が結果的に、貧しい人々や殺生を生業とする人々に対して、往生浄土の望みを絶たせるはたらきをしていました。そのことが背景となって、念仏は「不回向」の行であると記されています。
今日の私たちは、かつて「市場原理主義」とも言われていたように、市場経済が宗教性を帯びた社会秩序の中にいます。その規模拡大や社会の進歩に寄与し得る有用性が善根とされ、「無用」とされるものは自らの存在への信頼を失わざるを得ないのでしょう。
「有用性」をもち回向し得ることは一見、社会的に役立つ素晴らしいことであるかも知れません。しかしそのことが自力の心に捉えられ、存在の尺度となってしまった場合、言葉にならない、行動に表せない存在の領域と、その無言の訴えを消してしまいがちです。あるいは、自分が何かを与える以前に、すでに与えられている世界、存在が呼びかけられている世界を損なってしまいます。
自力の回向心がそのような問題を有するゆえに、法然上人が「不回向」と表した念仏について、宗祖はその心をさらに「非・回向」という、自力の回向心に対する如来の「非ず」の心(大悲心)として表さずにはいられなかったのでしょう。そしてそのもとには、私たちが求めるに先立ち、私たちへと与えられている如来の呼び求めの心(回向心)があるのです。
(教学研究所研究員・中山善雄)
([教研だより(169)]『真宗2020年8月号』より)