もろもろの病疫、飢饉、および闘諍を息めしむ、と。乃至略出
(『教行信証』「化身土巻」・『真宗聖典』三八四頁)
文応元(一二六〇)年、宗祖八十八歳の頃、諸国で飢饉や疫病がおこり、多くの人が亡くなった。当時のお手紙には、そのことを「あわれ」(『真宗聖典』六〇三頁)、悲しいことだと記しておられる。ただし、生死無常の道理は如来が説いておられる所であるから驚くことではない、と続けて記し、釈尊の教えを通してその現実を受け止めて行かれた。それは、仏教者としての一つの態度であろう。
我々の人生は、どのようになっていくかはわからない。けれども、その生を虚しく過ぎ行くものとは決してさせないという如来の大悲が、一人ひとりにかけられている。その頷きを得てほしい。娑婆の辛苦を目の当たりにしながら、最晩年の宗祖が語ろうとしたのは、そのこと一つであったように思う。
人々の死を驚くことではないと記す宗祖だが、それは人の死に平然としていられたということではない。病をおして上洛した弟子の覚信坊がそのみもとで亡くなられた際、宗祖は「御なみだ」(同五八七頁)を流しておられたという。
あるいは周知のように、建保二(一二一四)年、四十二歳の宗祖は衆生利益のために『三部経』の千部読誦を始められた。当時は干ばつの被害が大きく、おそらく雨乞いのためであったと言われる。まもなくその行為を「人の執心、自力の心」(同六一九頁)だとして取り止めたのだが、困窮する人々を前に心揺さぶられ、動かずにはおれないのが宗祖であった。
『教行信証』「化身土巻」には『大集月蔵経』を長く引いて、様々な天の神々が仏法を護持すると誓うことが確かめられている。念仏にそのような利益があることは、すでに浄土教の祖師善導や源信が説いているところであり、宗祖の引用もそのことを受けたものであろう。その中で標題の「もろもろの病疫、飢饉、および闘諍を息めしむ、と。乃至略出」(同三八四頁)という一文が記されている。
この一文は、初めから記されていたのではない。宗祖自筆本を見ると、後から追記した文章だということがわかる。なぜ初めは書かなかったのか。それは不明であるが、後に原典を確かめ直した時、この一文に目が留まり、敢えて書き加えなければならないと思い立たれたのであろう。しかも、文末の「乃至略出」という表現は、追記するのは一文のみだけれども、それで意は尽くしていないという宗祖の切々たる思いが伝わってくるようである。
私はこの一文を知った時から、その追記の必要性がずっとわからなかった。宗祖の見ていたものが、私の目には入っていないのだ。
伝染病(病疫)、食糧難(飢饉)、そして戦争(闘諍)。それは宗祖が生涯に幾度も目の当たりにした社会の辛苦であった。その終息の為に──かつての雨乞いのように──念仏するわけではない。けれども、念仏する中にあって、「世のいのり」(同五六八頁)を思わずにはおれない。この一文を追記せる宗祖の胸中に去来したものに、今、思いを馳せたい。
(教学研究所助手・藤原智)
([教研だより(170)]『真宗2020年9月号』より)