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-京都教区の大谷大学卒業生が中心となって結成された「京都大谷クラブ」では、1956(昭和31)年から2019年12月にかけて毎月、『すばる』という機関誌が発行されてきました。京都市内外のご門徒にも届けられ、月忌参りなどで仏法を語り合うきっかけや、話題となるコラムを掲載。その『すばる』での連載のひとつである「真宗人物伝」を、京都大谷クラブのご協力のもと、読みものとして紹介していきます。近世から近代にかけて真宗の教えに生きた様々な僧侶や門徒などを紹介する「人物伝」を、ぜひご覧ください!
真宗人物伝
〈24〉易行院法海師
(『すばる』745号、2018年6月号)
1、九州学系と高倉学寮での学び
第8代講師に数えられる易行院法海師(月蔵、1768~1834)は明和5年(1768)、豊後国日田(大分県日田市)の長福寺で生まれました。同寺は、父である宝月(1737~1805)の養父・通元(易行菴)以来、九州において教学を学ぶための中核の寺院であり、そこに1つの学の伝統を形成していました。法海師はそこで幼少より、父・宝月から兄・法幢(日蔵)とともに教えを受けました。
その後、京都高倉の学寮に入学し、父・宝月と同じく講者の開徹院随恵師(1722~82)から宗学を学びました。同じく随慧のもとで学んだ香月院深励師(1749~1817,真宗人物伝〈17〉香月院深励師)をたいへん尊敬していたため、多くの影響を受けることになります。そのため法海師以後は、それまで独自の学問系譜であった九州の学系も、京都の高倉学寮に収斂されていくことになったようです。
2、異端に向き合う
その後、法海師は学寮の寮司として講義を担当していきます。寛政11年(1799)には32歳で「略述法相義」を、文化元年(1804)には「倶舎論」を講じました。
文化2年(1805)には38歳で学階が擬講となり、翌年には「唯識論述記」を講述しています。ところが同年、肥後国合志郡(熊本県菊池郡大津町)にある光行寺の住職となっていた兄・法幢が、異解の疑いにより取り調べられ、その翌年、異安心として処せられてしまいました。
ただしその後も法海師自身は、学寮で講義を担当し続け、文化11年(1814)11月21日には47歳で学階が嗣講となります。
文政8~9年(1825~26)に法海師は、越後国龍山の異解と加賀国法論という2件の異安心事件の取り調べを担当しています。このように法海師は、仏教学・宗学を学び教えながら、教団内の異端である異安心事件に苦慮していました。
一方で江戸幕府が禁止した「切支丹」の取り締まりにも迫られました。文政10年(1827)、京都・大坂で「切支丹」を信仰する人々の存在が発覚し、文政12年(1829)12月に処罰されました。この「切支丹」には真宗門徒も含まれており、その旦那寺住持や連帯責任を負っていた組寺も処罰されたことから、真宗諸教団は危機感を抱き、積極的に対応していきます。文政13年(1830)正月19日、東本願寺へ招集された京都市中の僧侶に対して演説したのが法海師でした。
法海師は、僧侶が自信教人信を旨として、門徒へ教化を行き届かせたならば、邪宗邪法へ入る者はいない。「御預リノ御門徒中」へ仏法・世法の実意を教諭することが、僧侶の果たすべき役割である、と説きました。
門徒から「切支丹」が発覚したことを、住職による教諭が不十分であったためと、僧侶が主体的に担うべき問題だと受けとめて対応した教団の先頭に、法海師はいたのです。
3、学寮講者を全うした生涯
法海師は61歳となった文政11年(1828)10月4日、学寮における学事の最上位である講師の職に就任します。同12年の夏講では「観無量寿経」を、翌年から2年間は「大無量寿経」を夏講にて講じています。講師となる前年には夏講で「阿弥陀経」を講述しており、それら法海師の講録は、大正5年(1916)から刊行され始めた『真宗大系』に多数収録されています。このように法海師は、近代にも代表的学寮講者として認知されていました。 天保5年(1834)の4月15日からの夏講では、善導大師の著した「玄義分」を講述し、6月下旬に無事満講を迎えました。ところが7月8日夕方から法海師は体調を悪くし、翌日になるとさらに悪化して吐血してしまったため、学寮の一同も大変驚きました。そしてついに8月6日、法海師は高倉の講師寮において亡くなりました。2ヶ月にわたる夏講の講者を務め上げ、高倉学寮において67歳の生涯を閉じた、学寮講者として全うした人生でした。
■参考文献
「(三)頓慧、宝景及び法海の学説」(廣瀬南雄『真宗学史稿』法藏館、1980年) 松金直美「〔史料紹介〕宗門掟(従公儀邪宗門御触示)―京坂「切支丹」一件後における東本願寺学僧の演説―」(『同朋大学佛教文化研究所紀要』32号、2013年)