基調講演「ハンセン病問題とは何か―小笠原登の事績とのかかわりから」(抄)

「真宗大谷派ハンセン病問題に関する懇談会」真相究明、ふるさと・家族部会
 菱木政晴さん

 

●隔離政策と三つの迷信

藤野豊さんの『孤高のハンセン病医師 小笠原登「日記」を読む』(六花出版)という、小笠原登さんのお寺である圓周寺に残されていた日記を研究された本が発行されています。その中の一節を紹介します。

 

ハンセン病患者というだけで国家から政治的に差別された人々に、平等な人間として接した僧侶、宗教者としても高く評価されるべきである。学問的真理以外のいかなる権威にも屈さなかった小笠原登を、一言で表現すれば、孤高を恐れぬ、医僧と言えよう。(中略)日本の主な宗教は、絶対隔離を支えたという単純な理解ではなく、絶対隔離に抗した宗教者の存在を認めその信仰の継承を進めることが必要である。そのことを広範な宗教者、宗教学・宗教史研究者に期待したい。(199~200頁)

 

多くの宗教が隔離を支えたという藤野さんの総括は、実際にそうだと思います。真宗大谷派が掲げている「ハンセン病に関わる真宗大谷派の謝罪声明」は、まさにその隔離政策を支えたことに対して謝罪しているものです。

大谷派の謝罪声明の中に表明されている大切なことの一つとして、「病そのものとは別の、もう一つの苦しみ」という言葉があります。これはハンセン病問題の本質を言い表したものですが、小笠原登さんはこれを「彼らの苦悩は疾患そのものにあらずして、社会の迫害にある」と言われています。謝罪声明よりも先に、「病そのものとは別の、もう一つの苦しみ」を重視していたのが小笠原登という人です。

病そのものとしてのハンセン病は、不治の疾患ではありません。そして遺伝病でも強烈な伝染病でもありません。そのことをはっきりと間違いだと言われたのが、1931年に小笠原登さんが書かれた『らいに関する三つの迷信』です。

しかし、1931年に「癩予防法」が制定され、国の政策として終生隔離する方針が立てられ、療養所では断種や堕胎がおこなわれました。さらに、戦後、新しい憲法のもとで1953年に成立した「らい予防法」ではこの方針をさらに徹底させることで、この三つの迷信が再生されたのです。

病気の治療および看護の観点からも、「らい予防法」に基づく医療体制はあまりよくありませんでした。そこでは、医師からハンセン病と診断されたら、保健所の職員が来て療養所への入所を「勧奨」されます。その勧めを聞かなかった場合、入所が命じられます。しかし、それでも従わない場合は、警察によって無理やり「入所させることができる」のです。このような法律の下では、たとえ感染が疑われてもそれを隠そうとする心理が働き、治療にも予防にも支障をきたしかねません。つまり、「らい予防法」は、治療や看護や予防に何の役にも立っていません。しかし、偏見差別をまき散らしたという意味では、本当に大きな効果を発揮したのです。

不治の病・遺伝病・強烈な伝染病という三つの迷信は、当時の他の医者や科学者においても、意見を同じくした人は多かったはずです。しかし、小笠原登は、それらの迷信に抵抗しつつ、迷信にとらわれない医療実践を貫いた孤高の医師だったと言えます。

 

●ハンセン病家族訴訟の本質的意義

ハンセン病問題を考えるとき、「病そのものとは別の、もう一つの苦しみ」を最も象徴的に表しているのは、病歴者中心で闘われた国賠訴訟よりもむしろ家族訴訟ではないかと思います。

2001年の国賠訴訟の判決では、偏見差別を起こしてきた国の責任を明確に認定しました。国の隔離政策の被害として、隔離されていたこと自体はもちろんですが、隔離をまぬがれようと「潜伏」していたとしても、隔離される体制にあったことが被害なのです。「予防法」の体制下において日本中の人が、ハンセン病感染者、あるいは感染を疑われた人たちを排除する意識と行動を取らされました。そこで深刻なのは、病に陥った人を周囲の家族がどうしたのか、という点です。

家族は、自らが「不治の病、強烈な伝染病、遺伝」という三つの偏見と差別にさらされるだけではなく、自分の親族を排除する気持ちを持たされます。結婚や就職といったとき、実は家族がハンセン病療養所にいますと言えば大変なことになるわけです。私がこんな目に遭うのは家族がハンセン病になったからだと恨む気持ちが起こることもあるでしょう。だから、実際に家族訴訟が起こったとき、国は「家族はむしろ加害者だったのではないか」といったことを主張しました。

しかし、家族が加害者にさせられてしまうことこそ、家族の被害の本質ではないでしょうか。法律によって家族の当たり前の関係が壊されたのです。だから、家族訴訟こそがハンセン病問題を明らかにする本質的な訴訟であると言えます。だから、家族訴訟の原告の皆さん、国賠訴訟の原告の皆さんは、あの国策が間違っていたことを明らかにし、少数者を差別するシステムを立て直して、国のあり方を問うていくための先導を切ってくれたことになります。それによって、差別偏見を持たされていた私たちを、むしろ救ってくれたのです。

ハンセン病の元患者や家族の人たちが、隔離体制を受け入れずに、政策を変える方向に向かった意味とは、お釈迦さまが言われるように、自己こそ自分の主である、人権の主であるということです。国のために犠牲になることは人権の正反対です。そういう意味で、仏教は人権思想と重なった思想であり、本当の仏教の教えからは自らを犠牲にするということは絶対に出てこないはずです。

家族訴訟には、被害と加害の二重性を鋭く問うという特別の意義があると思います。私たちは、かわいそうな当事者がいて、その人を助ける仕事・支援をしているのではありません。原告として名のりをあげることは、自己こそ自分の主であるという主体を回復する運動です。それを聞いた私たちが「私もこの国策に反対です」と応じることで共に生きることができるのだと思います。そういうことが家族訴訟の中心課題であったと考えていかなければなりません。

(次号へ続く)

 

《ことば》
「私たちも自らの解放に向けて語りはじめようではないか。恥じることではないのだ。」
林 力さん
(ハンセン病家族訴訟原告団長)

 

昨年6月28日、熊本地方裁判所はハンセン病強制隔離政策によって、患者本人だけでなく、家族も差別被害を受けたことを認める判決を示した。その後の政府との交渉が重なり、原告団長の林力さんは、第11回全国交流集会への参加が実現しなかったが、集会参加者へメッセージが届けられた。

隔離の塀の中で生涯を終えられた父親の山中五郎さんの唯一の願いは、「父を隠せ。身内の者が家族であることを暴かれ幸せになったものはいない」であったと。父を亡き者として生きてこられたご自身の悔悟をもって、そして「判決が確定した今も、原告に『まだ語れない』と言わせる熾烈な経験、そして『排除』する社会の目が歴然と横たわっている」その中で、ハンセン病家族の方々にむけて「語り始めようではないか」と呼びかけられた。

身を通して語られる言葉は、聴く者に「自分ごと」として考える機会を与えてくれる。その声に、応答できる自分でありたい。

(解放運動推進本部 山内小夜子)

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2020年5月号より