■惜別忌とは

福井県あわら市出身の医師、藤野厳九郎(1874〔明治7〕年ー1945〔昭和20〕年)の命日の集い「惜別忌」が2020年8月11日午後、同市の福圓寺で行われました。

藤野厳九郎は仙台医専の教授時代に、後に中国を代表する文豪となる魯迅(周樹人)と出遇い、魯迅が生涯の師と仰いだ人物です。その交流を小説『藤野先生』で描いています。この記事では敬意を込めて藤野先生、魯迅先生と呼びます。福圓寺には藤野先生のお墓があります。

命日の集いは2018年から福圓寺と地元老人会(下番シニアクラブ)が、藤野先生と魯迅先生の交流を忘れず、そこから学ぼうと始めました。3回目の今年は藤野先生を慕う市民や地元の門徒ら22人が集まりました。墓参りと本堂での法要の後、講義と座談で互いの声を聞き合いました。

本堂裏の藤野厳九郎先生の墓を案内する筆者

 

■講義座談にて

講義は地元の福井県立歴史博物館学芸員の橋本紘希さんにお願いしました。題は「藤野先生と魯迅先生が生きた時代」です。日本は西欧列強の思惑の中で日清・日露戦争に突入。日清・日露戦争中には国内の新聞各紙で戦地・中国の人々を蔑視する記事が出回りました。メディアの力で中国は「不潔、卑しい、野蛮」というイメージが広がり、蔑視の感情が広がった時代でした。橋本さんは世情に流されない冷静さと国を超えた個人のつながりの大切さを説きました。

講義する学芸員の橋本紘希さん

その後は座談です。

ある男性は「藤野先生の平等観が好きだ」と言いました。仙台医専時代、藤野先生が魯迅先生を「特別扱いしている」と周囲の学生から匿名の告発文が送られた事件がありました。その男性は「藤野先生の中の『平等』というのは『おしなべて平等』ではなくて、留学生のハンディをカバーすることで『みんなと平等』だったのだろう。藤野先生はそれが当たり前だと思っていたのだと思う。それを『ひいきだ!特別扱いだ!』と批判する俗悪な感覚と、藤野先生の清廉潔白な平等観。その対比が興味深い」と話していました。

別の男性は「仙台では魯迅の顕彰が進んでいる。福井はあんまり。今日のような集いは大切だ」と話し、「国と国の関係が危うくなっても個人と個人の関係は揺るがない。そこからもう一度、国と国の関係を見直していけるはずだ。また藤野先生はぽっと現れたのではない。(若いころに地元の私塾で教えていた)野坂源三郎が授けた学問が底にあった。そんな流れの中に藤野先生がいた」と話してくれました。

講義の後は広間で行われた座談。各人が藤野先生への思いなどを語った

本堂で行われた藤野厳九郎先生の命日の法要

■師弟愛

毎年、さまざまな声を聞く中で発見があります。今年も一つの気づきがありました。

法要では冒頭に「表白(ひょうびゃく)」を読みます。表白は法要の意味をあきらかにするものです。その中にこんな一文を盛り込みました。「藤野先生と魯迅先生の師弟愛に学び、もってこれからの時代を考える礎とします」。しかし、今回の法要を終えて、「師弟愛」という表現は正確ではなかったのではないかと思いました。

藤野先生が晩年の1937(昭和12)年に「文学案内」という雑誌に掲載した「謹んで周樹人様を憶ふ」という文章があります。そこには次のような表現があります。

「私の写真を死ぬまで部屋に掲げておいてくれたさうですが、まことに嬉しいことです。以上のような次第でその写真を何時どんな姿で差し上げたのか憶えて居りません。(略)私のことを唯一の恩師と仰いでゐてくれたさうですが、私としましては最初に云ひましたように、たゞ、ノートを少し見てあげた位のものと思ひますが、私にも不思議です。周さんの来られた頃は日清戦争の後で相当の年数も経つてゐるにもかゝわらず、悲しいことに、日本人がまだ支那人をチヤンチヤン坊主と云ひ罵り、悪口を云ふ風のある頃でした※(略)。私は少年の頃、福井藩校を出て来た野坂と云ふ先生に漢文を教えて貰らひましたので、とにかく支那の先賢を尊敬すると同時に、彼の国の人を大切にしなければならないと云ふ気持がありましたので、これが周さんに特に親切だとか有難いといふ風に考へられたのでせう」

(仙台における魯迅の記録を調べる会編、平凡社『仙台における魯迅の記録』372頁)

※近世の後半には中国の呼称として支那という言葉が一般的に用いられていた。近代以降、清への対抗意識と蔑視観の浸透によって、より蔑称的性格をもった。文脈上、原文のまま掲載。

この文章からも分かるように、藤野先生にとって魯迅先生は生徒の一人ではあっても特別に目を掛けた「私の弟子」ではなかったようです。そして藤野先生が中国人蔑視を「悲しいことに」と言った背景には、野坂源三郎先生の教えがあると書いておられます。

■弟子一人ももたず

親鸞さんは『歎異抄』で「親鸞におきては弟子一人ももたず」と述べたといいます。あるとき門徒さんから「親鸞さんは法然さんを師と仰いだのに、自分は弟子を持たないという。それは矛盾しているのではないか」と尋ねられたことがありました。一瞬考えましたが、やはりこのことは矛盾しないのだと思いました。誰かを「私の師だ」と仰ぐことと、「こいつは私の弟子だ」とかわいがることは、それぞれ別のことなのでしょう。親鸞さんは、自分を師と仰ぐ人たちに対して、あくまで「御同朋御同行」として接されたのだろうと思うのです。

藤野先生と魯迅先生の関係もそうだったのではないでしょうか。藤野先生が魯迅先生を「私の弟子だ」と可愛がったということではなくて、教師と生徒として平等に接した。あくまで魯迅先生が師と仰いだ、ということがあったのでしょう。そして藤野先生は野坂先生を師と仰ぐ中で、あのように魯迅先生に対して親切な態度で接した。それぞれが師から受け継いだ教えを実践して生きた。そういうことではないでしょうか。

「師弟愛」という言葉が二人の交流を表現するのに正確ではないと思ったのは、この言葉には「師を仰ぐ」ということと同時に「私の弟子だ」とかわいがることも含まれているような気がしたからです。おそらく二人の交流には「弟子として特別にかわいがる」という感情はなかったのだと思います。生前の藤野先生と交流した地元の92歳の男性は「藤野先生は魯迅を決して特別扱いしたわけじゃない。あくまで平等に接したと私は思うよ」といつも話してくださいます。これも同じ事を指すのではないでしょうか。

■師を仰いで生きる

藤野先生の法名は「釈 善空」です。これはおそらく藤野先生の死後につけられたもので、福圓寺の前住職(故人)が考えた法名だと思います。法名のいわれは伝わっていません。現住職は「この法名は、善導の善と源空の空からきているのではないか」と考えています。

浄土教を革新的に発展させた中国僧の善導を、法然(源空)は時間と空間を超えて生涯の師と仰ぎました。福圓寺前住職はこんな関係を念頭に置きながら、日中の国境を越えた交流を結んだ藤野先生に「釈 善空」という法名を付けたのではないか。そう考えたら、つじつまがあうような気もします。

野坂ー藤野ー魯迅。この三人の方々は師を仰いで生きる、そのことでつながっていたのだと思います。そしてこのつながりは、今も後に続くたくさんの人を生んでいます。

「私がわが師と仰ぐ人のなかで、彼こそはもっとも私を感激させ、私を激励してくれたひとりである。(略)いまにもあの抑揚のひどい口調で、つかえながら話しかけてくるように思われて、たちまちまた私は、良心がふるい起こされ、勇気がましてくる」

(小説『藤野先生』松枝茂夫訳)

師を憶念して生きるとはどのようなことか。師を通して、どんな精神を受け取り生きていくのか。二人の国境を越えた交流は、私たちにそんなことを問いかけてくれます。

■新型コロナウイルス対策を施して開催

今年の惜別忌は新型コロナウイルスの感染拡大の下で開催しました。可能な限りの対策を施しての開催でした。まずは事前にマウスシールドを50個購入して、参加者に配りました。マスクを着ける方が大半でしたが、表情が見えることもあって使用してくれた方もおられました。暑い日でしたので、講義と座談会はクーラーの効く仏間で開催しました。その前に境内裏手の墓前と本堂で法要を行い、その後に仏間に移動しました。1時間に1度は仏間のふすまを開け放ち、換気をしました。幸いなことに現在のところ感染したという報告はありません。反省点としては、その場で名簿を回して名前と連絡先を書いてもらえば良かったということです。名簿があれば感染の報告があってもスムーズに連絡が回せます。来年も感染は続くかもしれませんが、知恵をしぼって、可能な限り開催し続けたいと思っています。

(福井教区通信員・福圓寺衆徒 藤 共生)