基調講演・「ハンセン病問題とは何か─小笠原登の仏教思想」(抄)

「真宗大谷派ハンセン病問題に関する懇談会」真相究明、ふるさと・家族部会

 菱木 政晴さん

 

●早田皓の手紙

小笠原登の仏教思想と、医師として強制隔離に反対した行動との関連をどう考えたらよいのか。

そのことを考える上で、第15回のらい学会(1941(昭和16)年)の総会のときの問題があります。そのときに、長島愛生園の医官であった早田皓と小笠原登が、『中外日報』という新聞の紙面上で論戦をしています。その論戦の後、早田から小笠原に手紙が来ているのです。そこで早田は、小笠原に対して、次のように言います。

 

(小笠原のように)迷へる者と共に迷つて共に苦んでやることも仏教的の行き方かと存じ候へ共之は小乗的の考へ方にて

 

このように小笠原を小乗的な考え方だと言っているわけです。それに対して、早田自身はどうなのかというと、

 

癩者を真に救ふ道は単刀直入入院隔離により其の家族及び周囲より伝染の危険を失はしめ又入院者の良き心の友とし又治療の友として其の終生を最大の満足を与へて終らしめることが必要にあらずやと存じ候。即ち大乗的に見ることにて其の根絶を計画すること

 

と言われます。この早田も実は日蓮宗の僧侶だったのです。日蓮宗の身延深敬園(みのぶじんきょうえん)という私立の療養所があるのですが、そこは綱脇龍妙(つなわきりゅうみょう)が設立した病院で、早田は縁戚にあたります。その影響でハンセン病医学に進むことを決意したそうです。

要するに早田が言っていることは、「小乗的」「大乗的」という対概念を使い、自分のことを大乗的と称しているわけです。しかし、これは、大乗的というよりは、多数のためには少数の人権を制限すべきであるという思想にすぎないと思います。実は、当時このようにファシズムと言うしかない思想に「大乗」という用語を用いるのはかなり一般的でした。倉田百三『大乗精神の政治的展開』(1934年)などが有名です。

 

●小笠原登と『一枚起請文』

では、小笠原登はどういう人だったのでしょうか。小笠原はほとんど真宗大谷派の僧侶との付き合いはありません。交流があった仏教者は、兄である小笠原秀實(しゅうじつ)を介しての、浄土宗や臨済宗の仏教者であったと思われます。

最近の調査で、小笠原登の使っていた『真宗聖典』(1917年版)が見つかり、その中に収録されている法然の遺言とされる『一枚起請文』を、小笠原は大変大事にしていたことを知りました。小笠原の『真宗聖典』は浩々洞編のもので、そこにある『一枚起請文』には、

 

    為証以両手印
浄土宗の安心起行、此一紙に至極せり。源空が所存、此外に全く別儀を存ぜず。滅後の邪義をふせがんが為めに、所存を記し畢。
    建暦二年正月二十三日
               大師在御判

(『真宗聖典』962頁)

 

という添書きが存在しないものを使われていました。この添書きには何が書いてあるかというと、「源空が所存、此外に全く別儀を存ぜず」ということですから、私(法然)はこれ一つ、ただ念仏だけだと言っているのです。

『一枚起請文』では、声に出して言う念仏以外のものは「もろこし、我がちょうに、もろもろの智者達のさたし申さるる観念の念にも非ず。又、学文をして念の心を悟りて申す念仏にも非ず」(同前)と言われます。この二つが奥深い念仏なのです。だから、声に出す念仏というのは浅い。誰でもできて、誰でもわかる。そのストレートな平等の精神を法然上人は述べて、「此外におくふかき事を存せば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし」(同前)と、本当は誰もわからないのに、何か奥深い意味があるのではないかというようなことを言う者は、釈迦弥陀二尊のあわれみにはずれ、本願にもれる、といった激しい言葉を法然上人は書き残しているのです。

法然上人は平等ということが最も大事なことで、それに反するものを全部否定するわけです。奥深いことを是認すると奥深いことがわかる人と、わからない人との差ができるからです。その差こそが、命をささげることを納得させるような、とんでもない仏法なのです。療養所で「皆さんが静かにここにおらるることがそのまま沢山の人を助けることになり、国家のためになります」と布教した暁烏敏の仏法が、まさにこれです。これを当時「大乗的」と称していたのです。

「此外に全く別儀を存ぜず」という添書きがない『一枚起請文』があり、浩々洞編纂の『真宗聖典』はそれを使っていました。そして、小笠原はその『真宗聖典』を使っていたにもかかわらず、添書きを大事なこととして、自分で書き加えているのです。

小笠原が、どういう仏教思想を持っていたかということの一端がやっとわかった気がしています。

 

●浄土教の本質

 浄土真宗の専修念仏というのは浄土教です。浄土教とは、私たちが穢土を形成しているものであるという自覚をもつのが浄土教だと思います。

つまり、私たちは「らい予防法」のような法律をつくってしまうものであった。その「らい予防法」をつくってしまう構造は何だったのか。ハンセン病国賠訴訟、あるいはハンセン病家族訴訟で見えてきたことは、その法律です。その法律と闘う、国を問題にするというような仏教でなければ、浄土教と名のることはできません。

なぜ、声に出す念仏が本願正定業なのかと言うと、他の行は全て人に差をつけるからです。念仏は、金持ちであるとか深い知識があるとか、そんな条件は一切なく、誰でも、簡単にできます。その簡単な念仏だけを取って、お偉い方がもったいぶってやるような「奥深きこと」を捨て去るのだから、誰にも咎められることはないとは言えないけれど、その道をひとり歩むという決意をしたとき、共に闘う人々との連帯が実現するのです。私は、小笠原先生がそのことを敏感に感じ取っておられたのに違いないと思います。

 

《ことば》
浄土宗の安心起行、此一紙に至極せり。源空が所存、此外に全く別儀を存ぜず。滅後の邪義を防がんがために、所存を記し畢。

 

 

これは法然の「遺言」と言われる『一枚起請文』の添書きである。これを大切にした人が、生涯をかけてハンセン病隔離政策と闘ってきた、真宗大谷派僧侶であり医師である小笠原登である。

小笠原が生まれ育った愛知県あま市の圓周寺から、彼の『真宗聖典』(1917年・浩々洞)が見つかった。著者名や添書きが省略された『一枚起請文』に、小笠原は先の一文を書き加えた。そこに隔離政策と闘ってきたからこその小笠原登の願いを感じる。

世間全体が隔離政策に隷従し、知識や経験では間違いを見抜くことができない状況の中で、小笠原ははっきりと「邪義を防がん」という。ハンセン病問題における「邪義」とは、人を人として見えなくする隔離政策である。「ただ念仏」は、知識や経験に基づいて迷う私に「一人」の尊厳を回復する教えである。それこそが小笠原の闘いの根拠ではないか。

また、それは「滅後の邪義」と言われる。小笠原が亡き後の私たちに、「踏みとどまれ。立ち帰れ」とかけられた願いでもあるように思う。

(解放運動推進本部 中山量純)

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2020年6月号より