-京都教区の大谷大学業生が中心となって結成された「京都大谷クラブ」では、1956(昭和31)年から2019年12月にかけて毎月、『すばる』という機関誌が発行されてきました。京都市内外のご門徒にも届けられ、月忌参りなどで仏法を語り合うきっかけや、話題となるコラムを掲載。その『すばる』での連載のひとつである「真宗人物伝」を、京都大谷クラブのご協力のもと、読みものとして紹介していきます。近世から近代にかけて真宗の教えに生きた様々な僧侶や門徒などを紹介する「人物伝」を、ぜひご覧ください!

真宗人物伝

〈25〉棟方志功
(『すばる』746号、2018年7月号)

 

 

棟方志功写真

(『棟方志功 わだばゴッホになる』日本図書センター、1997年、表紙より転載)

 

 

1、青森から東京へ

棟方志功(むなかたしこう)(1903~75)は明治36年(1903)9月5日、青森市大町で鍛冶屋を営む父幸吉と母さだの間に生まれました。

 

祖母(1832~1920)の影響で、幼い頃から信仰心のある子どもでした。字の読めない祖母へお経本を読んであげたり、手次寺である常光寺(青森市本町、曹洞宗)へ祖母と一緒にお参りに行き、地獄の掛絵を見たりしていました。

 

また青森に昔から伝わる、人物などを極彩色で描いた(たこ)やネプタに魅了されたことが大きなきっかけとなり、小学校を卒業した頃から絵を描くようになりました。

 

しだいに画家を志すようになった棟方は、友人たちと「青光社」という洋画のグループをつくり、展覧会を開催したりしました。

 

私立青森中学校の画家の先生で洋画家の小野忠明(おのただあき)を訪ねた時、「ワ(私)だば、バン・ゴッホのようになりたい」と言ったところ、新刊の雑誌『白樺』に掲載されているゴッホの「ひまわり」の絵を見せてくれました。そのすばらしさに感動していると、その絵をくれました。棟方は、それまでの水彩画をやめ、ゴッホのような油絵を描いていきました。

 

絵描きになるため東京に出て勉強しようと、大正13年(1924)9月、21歳で上京しました。帝展(いまの日展)に入選するまで帰郷しないと決意したのですが、ようやく初入選できたのは25歳となった昭和3年(1928)でした。

 

棟方は目が弱いため、洋画を描くには不利でした。そこで、日本人である自分らしさを活かした世界を持ちたいと思った棟方は、ゴッホも高く評価した日本の板画で自分の世界を表現しようと思い至ったのでした。

 

2、富山県での真宗との出会い

棟方が交流を深めていった人物に、富山県西礪波郡福光町にある真宗大谷派の光徳寺(こうとくじ)(高岡教区第3組、南砺市〈旧福光町〉法林寺)の住職・高坂貫昭(こうさかかんしょう)(1905~92)がいました。高坂より以前から、光徳寺の襖に絵を描いて欲しいと依頼されていたところ、同寺に滞在中の昭和19年(1944)5月のある朝、裏山へ行って強烈なインスピレーションを受けました。急いで寺へ駆け下り、すぐに墨を用意してもらい、一気に「華厳松」を書き上げました。他力本願の(おも)いから受けた願いを、はっきりと受けとめた瞬間でした。

 

いままでの自力で来た世界とは違う、仏意の大きさに包まれた他力の世界へ自然に入ったのでした。富山という真宗の根付いた土地であればこそ、身をもって阿弥陀仏に南無する道に出会ったのです。それは板画も含めたすべてに通じる道でした。

 

戦争が激化していく中、昭和5年(1930)に27歳で結婚した妻チヤコやその間に生まれた子ども4人とともに、疎開する必要に迫られました。そこで高坂らの招きによって、昭和20年(1945)4月に福光へ疎開しました。当初は光徳寺のある法林寺に住みましたが、翌21年(1946)、福光の町中で、のちに「愛染苑(あいぜんえん)」と名付けられた家を建築しました。

 

棟方一家は終戦後も、昭和26年(1951)までの6年半余りを福光で過ごしました。棟方は次のような言葉を残しています。

 

  富山では、大きないただきものを致しました。それは「南無阿弥陀仏」でありました。

 

3、板極道

昭和39年(1964)、61歳の棟方は『板極道(ばんごくどう)』と題した自伝を刊行しました。「ミチヲキワメル」ではなく、「ゴクドウ」の意味で付けられたタイトルであると言います。板画に熱中してきた人生について、迷惑をかけてきてしまった親や妻子に謝りたいという気持ちをこめつつ、これから道を極めていきたいという願いがこめられています。

 

他力の世界に出会ったことを通して残された棟方の作品は、今も多くの人々を魅了し続けています。

 

■参考文献

棟方志功『板極道』(中央文庫、1976年)

棟方志功『棟方志功 わだばゴッホになる』(日本図書センター、1997年、初出1975年)

 
■執筆者

松金 直美(まつかね なおみ)