ハンセン病家族訴訟で問われたこと

ハンセン病家族訴訟原告団副団長 黄 光男(ファン グァンナム)さん

 

●離ればなれになった家族

2016年、私はハンセン病家族訴訟の原告として熊本地方裁判所に提訴しました。原告団長は林力さん、私は副団長としてその後四年間裁判を闘いました。

私の両親は朝鮮半島に生まれて、10代に日本に渡り、大阪で6人家族、4人の子どもを産み育てました。姉たち2人と、兄は亡くなって、私は末っ子として生まれました。

私が1歳の時の家族写真に母親の姿が写っていますが、すでにハンセン病になっていたと思います。どこから漏れたのか、大阪府の職員が何度もしつこく療養所への勧誘にやってきました。私がまだ1歳、姉さんも6歳と11歳、子どもが小さいから行けないと拒み続けていたのです。近所の銭湯から入浴拒否をされ、家を消毒されるということもあり、もう諦めてその年の12月6日に母親と下の姉もハンセン病になったので国立療養所長島愛生園(岡山県)に入りました。同じ日に私は、岡山市内の育児院に預けられました。父親と上の姉は家に戻りましたが、1年後に父親と上の姉もハンセン病になって愛生園に入りました。

私は、大阪府に対して当時の患者台帳の資料公開請求をしたのです。その時に「個人を特定して見せられない」と言われましたが、400ページ程の台帳が2冊、名前は全部黒塗りでしたが、入所した日が分かっていましたから、母親の患者台帳が見つかりました。

台帳には、母親の名前と、家族の名前、私も生まれて2ヵ月で記載されていました。職員の手書きで「昭和31年1月9日、夫は何々で生活困難、…結節中等症で至急に入所の要あり。ここに強行に勧奨せるも、こどものことを言い立てて聞き入れず」とありました。この資料から、府の職員と、近所の一般市民が一体になってハンセン病患者を社会から追いやったことがわかりました。

1953年に「らい予防法」は改正されます。その時に予防法廃止を要請して療養所入所者が、国会を取り囲んで運動しましたが、法律は残り強制隔離は継続されました。この年は、私が生まれる3年前です。この時に廃止されていれば、私の家族は療養所に入らなくて済んだのです。なぜ廃止されなかったのかと、そう思います。

戦後の日本国憲法のもとで、このような無らい県運動が全国で展開されたのです。私の家族のようなことが各地でいっぱいあった。それに加担したのは一般市民ではないですか? 府や市町村の職員だけでは、ここまでの運動はできないのです。

2001年5月、ハンセン病国賠訴訟の地裁判決で国の過ちが認められ、国は謝罪しました。しかし、府や市町村の職員たちや一般市民の人たちの中に、国と同様に責任を感じ謝罪をした人が何人いただろうかと思います。ハンセン病問題とは、「患者はかわいそうな人たち」と同情を誘う問題ではなく、自分にも加害責任があるかもしれないという問題です。

 

●家族訴訟の中で見えてきた私自身の被害

家族訴訟の中で、他の原告の方々から、貧困で食べられなかったり、友達に石を投げられたり、語れないほどのひどい目に遭った話を聞いたとき、本当に身体が震えました。私自身はそういう目には遭っていないけれど、それならば自分の被害はなにかと考えました。1歳から9歳まで育児院で親と別々に暮らし、9歳から退所した両親と一緒に生活を始めたのです。私は9歳という年齢が本当に「すれすれセーフ」な微妙な年齢だと思います。私の被害は、母親や父親との人間関係ができていないという被害です。「9歳から一緒に生活したのだから人間関係はできているのと違うか」と聞かれます。僕自身も、そのつもりになったこともあります。けれども、よく考えたらそれができていなかった、それが私自身の一番の被害だと思います。

小学校4年生の時だったと思います。薬を飲んでいる母親に「何の病気?」と聞いたことがあります。二人きりの窓のない薄暗い文化住宅でした。母親は声を潜めて「らい病」と言いました。「らい病」が何か分からなかったけれど、「この病気は誰にも言っては駄目だ」と思い込んだのです。それ以降、語れなかった。小学校、中学校、高校卒業後に尼崎市役所に入りましたけれども、それでもずっと誰にも言えなかったのです。

 

●ハンセン病家族の被害

私は、原告陳述書に、「私たちハンセン病の家族は、入所者を無視し、葬り去って死んだことにしている。離縁したり、戸籍から除籍したり、葬式や結婚式にも呼ばない、亡くなった後も遺骨も取りにこない。自分の肉親をないがしろにする冷たい家族としか見られていません。だけれども、その家族の苦しみというのは、それぞれにあったと思うのです。自分の親を看取りたくない子どもがどこにいますか? 決して本心ではないのです」ということを書きました。2019年6月28日に勝訴判決が出て、本当に勝ってよかったです。この四年間、法廷の中で原告の人たちが、自分自身の被害が何かを、本当にしっかりと裁判官たちに伝え切ったと思います。勝訴はその結果だと思います。

 

●問われた「社会構造」

判決文の中に、「周囲のほぼ全員によるハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別が出現する一種の社会構造が築き上げられた。上記の社会構造に基づき大多数の国民らがハンセン病患者家族であるという理由で忌避感や排除意識を有し、患者家族に対する差別を行い、これにより深刻な差別被害を受けた(要旨)」とあります。ここに「社会構造」という言葉がありますが、これをどう説明し、変えていくのかが大事な課題です。

判決では、文部科学省もその責任を問われています。学校現場でハンセン病問題を伝えるとき、ハンセン病患者への差別がどのように起きたのか、この「社会構造」という意味を小学生の子どもたちにどう伝えていくのか、ここがすごく難しい。

自分は差別はおかしいと思っていても、世間はそうではないので、空気をよんで世間に同調してしまう。同調圧力と言うんですかね。私は、それが「社会構造」だと言っています。また、私の職場は市役所で、公務員はたくさんの啓発研修を受けます。「いい話をされるけど、それ建前でしょう?」と。そのように話を聞かれたら、今しているこの話は何の意味もないのです。「本音と建て前」を使い分ける心理とは、いったい何でしょうか?

これまでの啓発は、正しい知識を得て、自分が差別をしなければそれでいい、で終わっていませんか。それではだめなのです。社会構造が、同調圧力と本音と建て前を使い分けることで成り立っているなら、それをどう崩していくかが問われていると思います。どう崩すかというと、小笠原登先生のように、正しいと思ったらやり切ることだと思います。差別されている状況を見たときに、自分は差別していないからと放置するのではなく、目の前にある差別にそれはおかしいと一歩踏み込まないと社会構造は切り崩せないと思います。

今、私の孫は1歳です。ハンセン病だった母親のひ孫になります。この子が大人になり、「私のひいばあちゃんはハンセン病でした」と言った時、差別を受けることのない社会になっているでしょうか? 社会構造を変えるとは、そういうことです。この孫のために、どんな社会をつくっていくのか。私一人ではできません。皆さんの力で、なんとかこの子がすくすくと育つ社会にしてもらいたいと思います。

 

 

真宗大谷派宗務所発行『真宗』誌2020年8月号より