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-京都教区の大谷大学卒業生が中心となって結成された「京都大谷クラブ」では、1956(昭和31)年から2019年12月にかけて毎月、『すばる』という機関誌が発行されてきました。京都市内外のご門徒にも届けられ、月忌参りなどで仏法を語り合うきっかけや、話題となるコラムを掲載。その『すばる』での連載のひとつである「真宗人物伝」を、京都大谷クラブのご協力のもと、読みものとして紹介していきます。近世から近代にかけて真宗の教えに生きた様々な僧侶や門徒などを紹介する「人物伝」を、ぜひご覧ください!
真宗人物伝
〈26〉円乗院宣明師
(『すばる』747号、2018年8月号)
円乗院宣明師肖像画(大谷大学博物館所蔵)
1、生い立ち
第6代学寮講師に数えられる円乗院宣明師(1749~1821、巴陵)は、寛延2年(1749)5月7日(または寛延3年3月5日)に、加賀国河北郡八田村(金沢市八田町東)の法圓寺(金沢教区第9河北組)で生まれたと伝えられています。ただし一説では、越中国砺波郡小院瀬見村(富山県南砺市〈旧・福光町〉小院瀬見)の百姓・清兵衛家で生まれたとも言われています。宝暦8年(1758)に8才で金沢片町の藩御用の鬢付香油本舗の木村屋へ丁稚奉公に行き、同10年(1760)に法圓寺の侍僧となったとの言い伝えです。いずれにしろ、幼少期から学問に励み、暗記力が強く、学僧となる素質があったとの逸話が残されています。
2、香月院師と並び称される講師
明和3年(1766)、18才で京都の高倉学寮に入り、理綱院恵琳師(1715~89、亀陵,「真宗人物伝〈7〉理綱院恵琳師」)や開徹院随恵師(1722~82、香酔)から宗学を学びました。さらに南都・初瀬などの名刹で、倶舎・唯識などを学びますが、特に『倶舎論』の研鑽に力を尽くしたため「倶舎宣明」と称されるようになりました。
天明7年(1787)に39才で、越中国高岡の開正寺(高岡教区第5組)へ移住し、寮舎を修理したり一切経蔵を建立するなど、学問拠点としての整備に努めました。
寛政3年(1791)に擬講、同5年(1793)に嗣講の学階となり、学寮講者としての地歩を固めていきます。そして出羽国の公巌(「真宗人物伝〈11〉海德院公厳師」)や肥後国の法幢などに対する異安心の取り調べを、学事の最高位である講師職にあった香月院深励師(1749~1817,亀洲,「真宗人物伝〈17〉香月院深励師」)と共に担当しました。
文化6年(1809)、香月院師の弟子である威広院霊曜師(1760~1822)とその門下である尾張国の5人の僧侶が異安心の嫌疑にかけられ、翌年に処罰されました。そのため香月院師は「講師」職の休職を命じられてしまいました。そこで文化8年(1811)、63才の円乗院師が「講師」に任命され、香月院師が復職してからも、講師2人の体制となっていきました。
このような経緯で講師となった円乗院師は、高倉学寮の全盛期に多くの門弟を育成した学寮講者として、香月院師と並び称されるようになっていったのです。
3、近現代における顕彰
円乗院師の百回忌を翌年に控えた大正8年(1919)、大谷大学長の南条文雄氏(1849~1927)が序文を寄せた『円乗院言行録』の刊行が予定されていました。ところが第一次世界大戦(1914~18)終結後間もない時期で、大暴騰のために出版が延期されてしまいます。ようやく昭和6年(1931)に法藏館から刊行された同書により、円乗院師の語録や行実などを知ることができます。
また円乗院師の生誕230年にあたる昭和54年(1979)、それを記念して、越中国生誕説による生家の手次寺である即成寺(南砺市小院瀬見、廃寺)の境内に石碑が建立され、『円乗院宣明講師の生い立ち』と題する小冊子が刊行されました。「円乗院宣明講師生誕之地」と刻まれた碑文は、当時、大谷大学長であった松原祐善氏(1906~91)の筆によります。松原氏は福井県生まれですが、結核のため、昭和27年(1954)から富山県東礪波郡城端町(南砺市)の療養所に入所していました。その療養中に砺波地域の人々と交流を重ねた縁で、碑文の執筆が依頼されたのでしょう。
石碑の裏面には円乗院師の略歴が刻まれており、京都などで学んだ後、生まれ育った北陸における教学の土壌を培った人物として円乗院師を偲ぶことができます。
■参考文献
『円乗院宣明講師の生い立ち』(円乗院宣明講師顕彰石碑建立及び小伝発行発起人会、1979年5月27日)
「宣明及び霊暀の学説」(廣瀬南雄『真宗学史稿』法藏館、1980年)