供養するとは

著者:園村義誠(奥羽教区來生寺住職)


法事にお参りしたお宅で「こうして法事を勤めることができて、亡くなった父もさぞや喜んでいると思います」という息子さんからの挨拶がありました。その後のお斎の席で私はその息子さんに「お父さんが喜ばれる法事というのはどういうことなのでしょうね」と尋ねたら、息子さんは「お寺さんにありがたいお経もあげてもらったし、忙しい中をたくさんの人にお参りしてもらって、本当にいい供養ができたと思います。さぞや亡くなった父も喜んでくれていると思いますし、残された私たち家族もこれでひと安心です」と話されました。私はその言葉を受けて「いい供養ができたとおっしゃいますが、いい供養とはどういうことなのかをしっかりと吟味してみることこそが、本当の意味でのお父さんの供養ということにもつながっていくのではないでしょうか」というお話をさせてもらいました。

私は、この息子さんが話された言葉の中に、世間で使われている「供養する」という言葉の意味をあらわす、二つのキーワードがあるように感じました。それは、供養するという行為を「亡くなった人を喜ばせる行為」、「自分たちが安心できる行為」として受け止められているということです。  本来「供養する」とは、生前中にさまざまにお世話いただいた亡くなった方に対して「何かしてあげたい」という、感謝の思いからわき起こる行為なのではないでしょうか。ですから、「供養しなければならない」という考え方より も「供養せずにはいれない」という考え方にたって行われる行為なのでしょう。しかし、その純粋な思いもいつの間にかまったく別のものに変質してしまっているということに、多くの人が気づいていないのではないかと私は感じ ています。

供養といえば真っ先に「先祖供養」という言葉を思い浮かべる方が多いかと思いますが、一般的に先祖供養という行為も「ああしてください」「こうしてください」と、自ら都合のいい願いごとばかり叶えてもらうことを引き換え条件としてしまっているのではないでしょうか。 亡くなられた人のためと思ってなされた供養の本質が、いつの間にか自分たちの保身をはかる行為へと変質してしまっているのです。「供養してあげたい」という純粋な思いも、時として「こんなに供養してあげているのに」と変わりかねないのが、悲しいことながら私たち人間の偽らざる姿なのでしょう。

私たちが供養する上で大切なこととは「亡き人を偲びながら真実なる仏のみ教えに出遇っていく」ことなのです。近年の葬儀や法事をはじめとする仏事の傾向を振り返ってみる時、体裁や世間体ばかりが重んじられ、亡くなられた人とどう向き合っていくのかということがないがしろにされてはいないでしょうか。

供養するとは、決して一方通行的な行為ではなく、お念仏のみ教えに出遇っていくことで、いずれ死にゆく我が身の「いのち」の行方を思い、「いのち」そのものとどう向き合って生きていくのか、生きていかねばならぬのか、という大切な問いを亡き人からお教えいただいたのだ、という思いにいたった時(双方向の関係)、本当の意味で亡くなられた人を仏さま(諸仏)として尊ぶという、本来の供養ということにつながっていくものなのではないでしょうか。

『僧侶人のぽけっと法話集』(東本願寺出版)より


東本願寺出版発行『真宗の生活』(2017年版⑫)より

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2017年版)をそのまま記載しています。

東本願寺出版の書籍はこちらから

東本願寺225_50