愚者になりて往生す──漂流と帰郷(楠 信生)

新型コロナウイルスと人間

九年前、二〇一一年三月十一日、東日本大震災の惨状に、日本のみならず世界の多くの人々が驚愕した。同時に、被災した多くの方々の苦悩や孤独、悲しみを見て、自分に何かできることはないかと感じ行動したのである。そのことを「絆」という言葉で語り、「寄り添う」こととして話された。

今、新型コロナウイルス感染症の流行によって、世界中の国の人々が苦しみ悩み怖れている。感染しても全く無症状の人から重症化して死に至る人までいる。持病があるなど重症化しやすい人への注意は指摘されているが、新型コロナウイルス感染症の多くの部分が未解明である。それだけに、不安や怖れには特別なものがある。そうした中、感染に対して無関心を装う人もいることが報道でたびたび告げられる。過度な不安や怖れ、それに対するかのごとく無頓着で気ままな行動をする人、いろいろな意味で世の中は穏やかではない。いずれにしても、ワクチンと治療薬があらゆる国の人々に行きわたらない限り、感染症も人々の困惑も早期におさまる気配はない。このような状況の中で私たちは、何を大切なこととして今を生きようとしているのであろうか。

感染症の拡大を防ぐためには、密集・密接・密閉の三密を避けて人と人との距離を一定以上に保つことが基本とされる。それは当然のことではあるが、その中でことに痛ましいのは、感染症で亡くなった方と、家族でさえ思うように別れの場を共有することができないことである。あらゆる人と人とが自他の罹患の可能性を考えて距離を保たなければならないという現実の前に。

これらは、絆も寄り添うことも認めないような状況である。しかし、思うように人と人とが場を共にして語り合うことができなくても、関係性によって生きるという人間の基本まで変わるものではない。人間は人間だけで完結するものではないが、よくも悪くも関係性で人間が形成されることは縁起の道理の教えるところである。したがって、絆とか寄り添うということが論理的に否定される問題なのではなく、むしろその内実が問われているのである。

寺院が直面する課題

近年の葬儀のあり方について、その変化が著しい。いわゆる家族葬と言われる葬儀の形態が珍しいことでなくなった。大都市での直葬と言われる選択も特別ではなくなっている。このことは寺院側からすれば、仏事の軽視として危機感を持たれる。しかし、どうなのだろう。寺院側にとって寺檀関係の中で勤めてきた葬儀のあり方が、現代では世の人々から不信感という意味合いでの危機感をもって見られていたと言えなくもない。世間からは、習俗にもとづいた既成秩序であって、今ようやく変化への願望を世の流れとして実現する時が来たということではないのか。

つまり、寺院の側から見ると直葬・家族葬が、これまでの寺と檀家という既成秩序の崩壊を予想させる危機である。しかし、世間からすると常日ごろの信頼関係を築けていない僧侶の葬儀の折の無配慮さに、諸宗の祖の願いを失っているのではないかという危機感を抱いていたと言えるであろう。

新型コロナウイルス感染症の流行、葬儀のあり方の変化、この両者には直接的関係性はない。しかし、寺院に戸惑いをもたらし、あり方が問われる結果となっていることは確かである。無論、葬儀の問題に関しては、その責任の一端を寺院側が有していることは認めたとしても、新型コロナウイルスに関しては全く外からやってきたものと言える。ただ、この二つの課題に通底するものがどこにあるかということである。

『大無量寿経』に「老・病・死を見て世の非常を悟る」(『真宗聖典』三頁)とある。新型コロナウイルス感染症も葬儀の場合も共に老・病・死の問題である。老病死を現象としてではなく、宗教的課題もしくは求道の課題とするのが仏陀の教えである。

新型コロナウイルス感染症が流行する前の日常がよかった、地域の人々が献身的にかかわって勤められた葬儀は厳粛そのものであったと回顧するような問題ではない。時代は変わっても、老病死に惑い苦しむことは変わらない。今、感染症を怖れる人がいる。罹患して苦しむ人がいる。大切な人をなくして悲しみ途方に暮れている人がいる。自分もまた同様である。ただこの事実を縁として世の非常を悟る、つまり出離生死の仏道に生きるということが要である。この道を見失って議論することが寺院の本当の危機である。親鸞聖人の生きた時代は、まさに仏教界の危機の時代であったと言える。そして今も。

仏法聞き難し

現代の精神的課題として「承認欲求にまみれた現代社会」ということが言われる。この現実は、真宗の教えを聞くことが極めて難しい「我」の時代をも意味している。我執の問題は、人類の始まりからある問題であるが、巧妙な我執の芝居に自己が翻弄されているのが現代である。つまり、我執と批判的精神の同居である。

親鸞聖人は、厳しい原典批判をされている。経典の新旧訳の校合はもとより、諸論釈によって仏意を明らかにするためにお聖教の厳しい読み方をされる。それでも、七高僧の読み方などを批判されることはない。親鸞聖人は高僧方によって教えられ気づかされたことに恩徳を感じ、讃嘆するのみである。

批判的検証が重視される現代の研究方法の中で重要なことは、検証の過程の批判的精神が何をよりどころにしているかということである。そこに「承認欲求にまみれた現代社会」と批判的検証との関係性の問題がある。

私たちの学習にとって、方法論の大切な指標となるものは、親鸞聖人の生涯にわたる求道から教えられることである。それは顕浄土真実を目的としたものであって、七高僧における仏道への向かい方に教えられるところを真摯にたずねるという姿勢である。そこにあるのは先人の不足を語ることなく、ただ、人間の真実の救済と自証を明らかにして下さった教えを見ることだけである。批判的検証は大切な研究方法であるが、その基礎には、救われがたい自己、「仏法聞き難し」という認識が不可欠である。

本願にふれた凡夫の危機感

近年の儀式の簡略化や省略という実状は、寺院の存続に不安を抱かせ、それに加えて新型コロナウイルス感染症の流行が、寺院の活動や運営に直接大きな影を落としている。

一九五四(昭和二十九)年相応学舎年度報恩講の安田理深先生の講演録「危機の三宝」が『本師 安田理深師──安田理深先生三回忌記念集』に収められている。

危機が危機に終わるのが悲劇であろう。無数の悲劇は空しく終わっていく。人間歴史の無数の悲劇の中から、王舎城の悲劇が重大な意義をもったのは、それが悲劇に終わらずして、転機となったからである。人間の危機が人間を超える転機となった。浄業の機・浄邦の縁となった。危機は更に転機となった。聖道の危機は、本願の歴史に総合すれば正に転機である。(一七四~一七五頁)

危機的状況の中でなすすべもなく立ち尽くす時、悲劇となり空しく終わる。世俗的関心で時流に合わせていけば外道となる。教理で型通りの現実解釈をしても人は救われない。いずれも危機である。「人間の危機が人間を超える転機となった」ということは、善人の抱く危機意識が、仏の本願にふれた凡夫の危機意識へと変わることである。だからこそ危機が転機となり得るのである。

宗教者が新型コロナウイルス感染症の不安の中でしなければならないことは、何か。感染症そのものは医療の関係者に任せるしかない。またその人々から正しい科学的な知識を得て生活の知恵とすることである。そして宗教者としては、教えにたずねながら、ただ人間を大切にする道をたずねることである。感染症への怖れから不寛容になったり、隣人を監視する自粛警察と呼ばれるようなあり方にさえ陥ったりすることの冷たさを、恥じる心を説くことである。不安の中に漂流するのか、本願の世界に帰郷しようとするのか、それこそ問われているのである。

今、政治に求められることは「信頼・論理・愛情」であると言われる。これは政治に限ったことではない。どの分野でも必要なことである。親鸞聖人は人間であることの悲しみに立って「聞思して遅慮することなかれ」と言われる。「信頼・論理・愛情」も、凡夫という人間であることの悲しみをぬきにすれば戯論となる。凡夫は、凡夫であることを生きるのみである。凡夫であると言っても、「愚者になりて往生す」ということがあって、仏道としての生が全うされるのである。

([教研だより(168)]『真宗』2020年7月号より)